妖魔夜行 暗き激怒の炎 北沢慶/山本弘/友野詳 ------------------------------------------------------- 【テキスト中に現れる記号について】 《》:ルビ (例)蠱毒《こどく》『犬神』 |:ルビの付く文字列の始まりを特定する記号 (例)|折り畳み式《バタフライ》ナイフ [#]:入力者注 主に外字の説明や、傍点の位置の指定 (例)[#改ページ] -------------------------------------------------------   目次  第一話  月下の逃亡者   北沢 慶  第二話  暗き激怒の炎   山本 弘  第三話  邪念の群れ    友野 詳   妖怪ファイル   あとがき [#改ページ] [#ここから5字下げ] Take-1————————  いままでに、誰かに復讐《ふくしゅう》したいと思ったことはありませんか?  別に個人じゃなくてもいいんです。団体や、物事に対してでも、構いません。  きっと一つや二つは、あるんじゃないでしょうか。  いったい、どういう理由ででしょうね。いじめられた? 仕事で出し抜かれた? 信用していたのに裏切られた?  人によって、理由はさまざまあるようです。もちろん同じ出来事でも、人によって復讐したいと思ったり、思わなかったりもするんでしょうけど。  結局それは、自分にとってどれほど悔しかったか、悲しかったか、辛かったかによって恨みの度合いも変わってくるということですね。触れられたくないところに触れられれば、ほんの些細《ささい》なことでも怒りが爆発することってのはあるものですから。  さて、それではとにかく、復讐してみることにしましょう。  心の中の大切なものを踏みにじる外道には、しかるべき報いをくれてやらねば気持ちも治まりませんし。  どんな方法で、復讐しましょうか。やり方はいろいろありますが、やはり自分にあった方法で行なうのがうまくいきそうですし、気分もスカッとすることは間違いありません。それにやられたことと等価か、それ以上の苦しみを与えてやらないことには、復讐にはなりませんからね。  まあ一番簡単なのは、怒りに任せてぶん殴ることです。頭が単純で腕っぷしが強ければ、これが一番手っ取り早い。後先考えず、がつんと一発。  もし相手のほうが強いのならば、少し考えが必要です。罠《わな》をしかけたり、闇討《やみう》ちしたり。相手の弱点を調べあげ、そこを突くというのもいい感じじゃないでしょうか。  ただこの方法は、後始末が大変。うっかりやりそこなうと反撃が怖いし、中途半端でも逆に復讐される。やる以上は、完膚なきまで叩《たた》きのめす覚悟が必要なのです。  そしてもちろん、人であることをやめる覚悟も……必要なのですが。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 第一話  月下の逃亡者  北沢慶   1.犬神筋の男   2.奇妙な女   3.恭子   4.現われた敵   5.蠱毒『犬神』   6.レイ   7.真相   8.死闘   9.そして、狼は放たれた [#改ページ]    1 犬神筋の男  薄暗い、闇《やみ》の中。  二つの首が、地面から生えていた。  小さな部屋の中だ。だが屋内にしては不自然なことに、床は土がむき出しになっている。  そこに、首が生えている。体が、埋められているのだ。  一つは、男。もう一つは女だ。かすかな空気の動きから、息をしているのはわかる。だがその速度は遅く、弱々しい。  ——飢えているのだ。何日も、食事を与えられていない。死が迫っているのは、明白だ。  その二人のそばに、一人の男が立っていた。仕立てのよいスーツに身を包んでいる。顔は暗くてよくわからないが、歳《とし》の頃《ころ》は三十歳前後だろうか。  まるで、一流企業のエリートのようないでたちだ。しかしその手にあるものが、そのイメージを裏切っている。  鋸《のこぎり》。どこにでもあるような、両刃の鋸。  それが、闇の中に白く浮き上がっている。 「大上《おおがみ》……」  血を吐き出すように、女の首はつぶやいた。大上というのは、男の名前であろうか。 「まだしゃべれる元気があるのか……さすがだな」  大上と呼ばれた男は、揶揄《やゆ》するような声でつぶやく。 「今回はおまえにも期待しているよ。おまえなら、強い蠱毒《こどく》が作れそうだ……さて」  大上は、男の首の横に屈《かが》み込んだ。 「いい頃合《ころあい》だ」  大上は地面から生える頭を掴み、その顔を覗き込む。埋められた男の表情は憔悴《しょうすい》しきり、もはや抵抗すらしない。 「やめろ……」  女の声が、響く。だが大上はにやりと笑うと、鋸《のこぎり》を男の首に添えた。  そしてゆっくりと、その柄を引く。 「やめろ————っ!」  女の絶叫が、部屋に木霊《こだま》する。だが大上は、無言で鋸の柄を引き続けた。  男のかすかな悲鳴が、その一回一回に洩《も》れる。鋸の刃が肉を引き裂き、血がしぶく。  しかしその悲鳴もやがて聞こえなくなり、やがて鋸を引く手が止まった。 「……あとは、おまえだけだ。おまえの準備さえ整えば、わたしの『計画』は完成する」  大上はそうつぶやき、ゆっくりと立ち上がる。その手には、鮮血の滴る男の首があった。 「かつては国家ですら操ったわれら犬神筋も、いまやわたし一人……」  目を伏せ、大上は胸に手を置く。 「その犬神筋の復興に、おまえのような出来損ないを役立ててやろうというのだ。誇りに思うがいい」  そう告げ、大上はにたりと笑った。返り血で斑《まだら》になったその顔は、狂気に歪《ゆが》んでいる。 「おまえの首を刈る日が、楽しみだ」  歯を食いしばる女の顔を見下ろし、大上は低く笑う。首から流れ落ちる鮮血が、彼女の顔を濡《ぬ》らした。 「そうだ。そうやってわたしを恨め。そうすれば、おまえの怨念《おんねん》が最高の蠱毒となる」  血にべったりと濡れた女が、凄《すさ》まじい形相で大上を見上げている。視線で人が殺せるならば、殺そうとせんばかりに。 「次に会うときが、別れのときだ。せいぜい、わたしを恨み、憎んでいるがいい」  最後にそう述べると、大上はその場を去る。ゆっくりと、革靴の足音が遠ざかってゆく。 「大上……」  ぎりっと、奥歯が鳴る。 「……かならず、おまえを殺す……」  小さく、女の首がつぶやく。それと同時に、地面が少し、軋《きし》んだ。 「かならず……」    2 奇妙な女 「おい、ケンカだぜ、ケンカ」  甲州《こうしゅう》街道の高架下を歩いていた水波《みなみ》流《りゅう》の耳に、そんな言葉が飛び込んできた。  日曜の夜とはいえ、酔漢が酔った勢いで暴れることなど珍しくもない。だから、初めは彼も適当に聞き流していた。  そもそも新宿の駅前だ。どうせすぐに、駆けつけてきた警官に取り押えられるだろう。わざわざ、厄介ごとに顔を出すこともない。 「それに、時間もないしな……」  腕時計を見れば、七時五十二分。目的の本屋が閉店するまで、あと八分だ。 「かなたも、俺《おれ》にこんなモン頼むなよ」  かなたというのは、彼が常連になっている店、BAR <うさぎの穴> のマスターの娘だ。新宿に出るといったら、予約していた画集の受け取りを頼まれたのだ。  なんでも一部で有名な漫画家の画集で、予約だけで完売したらしい。かなたの予約分も、今日中に受け取らないとキャンセル扱いになるとかで、忘れないよう何度も念を押されている。 「これで間に合わなかったりしたら、なんて言われるやら」  自然、足早になる。 「お、あそこか……」  目的地である細いビルは、すぐに見つかった。しかしその小さな入口の前に立った瞬間、流の足がぴたりと止まる。 「……なんだ?」  妙な気配が、彼の後ろ髪を引いた。振り返ると、例の乱闘現場が目に入る。  やじ馬が集まり、けっこうな人だかりになっている。しかし巻き込まれることを恐れてか、かなり遠巻きだ。ちらりと覗《のぞ》き込むだけで、すぐに立ち去るものも多い。いまも、流のそばを学生風の二人連れが通り過ぎてゆく。 「……女一人に、十人がかりじゃなぁ」 「ああ。警察はまだかよ」  そう話し合いながら、二人連れは本屋の狭い入口に消えていった。その瞬間、流の頭の中の天秤《てんびん》が、大きく傾く。 「許せ、かなた」  一言そうつぶやくと、流は人垣目指して駆け出す。かなたに言わせればただの女好きだが、彼は女性の危機を見過ごせない性分なのだ。彼にとっていまいち価値のわからない画集よりも、遥《はる》かに重要度が高い。 「悪い、ちょっとどいてくれ」  遠巻きにしているやじ馬を押しのけ、人垣へ押し入る。見れば、確かに一人の女性を男たちが取り囲んでいた。  囲まれているのは、ほっそりとした——というよりはげっそりと痩《や》せ細った女の子だ。歳《とし》の頃《ころ》はよくわからないが、二十歳《はたち》にはなっていないはずだ。金髪に近い茶髪で、泥だらけのTシャツとジーンズを身につけている。手には、なにか包みのようなものを大事そうに抱えていた。  背はそれなりに高いが、とても男相手に戦えるような体格には見えない。しかし彼女を取り囲む男たちの数は、六人。 「へぇ……」  流は思わず口笛を吹く。残りの四人は、すでに地面に横たわっていた。  もっとも女の子も、息が上がっている。左右はコンクリートの壁。両方の出口には男が三人ずつ。いくらなんでも勝負は見えている。 「そろそろ、助っ人の登場って感じだな」  流は人垣を抜けると、通過道に入る。それを見たやじ馬たちが、「おお」と歓声をあげた。女の子を取り囲む男たちは、それで気が付いたのか一斉に流を見る。  すらりとした長身、がっしりとした体格。そして整った顔立ちに浮かぶ、余裕の笑み。  対する男たちは、新宿や渋谷《しぶや》にならどこにでもいるようなストリートファッションの少年だ。女の子同様、まだ十代だろう。 (チーマーってやつか?)  流は肩にかけていたリュックを降ろし、首の関節を軽く鳴らす。 「デートのお誘いなら、もっとスマートにやるんだな」  そういい放ち、ブルゾンを脱ぐ。その下から現われた体躯《たいく》に、思わずギャラリーの女性たちがため息をついた。  丸太のように、太い腕。ゆったりとしたTシャツですら盛り上げる胸。それでいて、鼻筋の通った甘いルックス。 「俺《おれ》が模範を見せてやろうか?」  流は軽く構えをとり、左手で挑発するように手招きする。普通ならこれで、激昂《げっこう》して飛びかかってくるか、怖気《おじけ》付く。  しかし意外なことに、少年たちは流をあっさりと無視した。くるりと背を向けると、再び女の子へと向かってゆく。 「お、おいおい」  さすがの流も、思わずあっけにとられた。売ったケンかを無視されたことなど、生まれて初めてのことだ。 「ここで飛びかかって来てくれないと、カッコつかないだろうが」  思わずそうぼやきながら、手近な男を掴《つか》む。女の子に殴りかかろうとしていた男は、それでようやく流に対して拳《こぶし》を振るった。 「おっと」  その攻撃を、流は咄嗟《とっさ》に身を引いてかわす。  しかし、それは拳ではなかった。いつ取り出したのか、その手には|折り畳み式《バタフライ》ナイフが握られている。 「ちょっと待てよ……」  流の頬《ほお》に、つぅっと鮮血が伝う。 「男相手ならなんでもありなのか、よっ!?」  ナイフを振り抜いた男の脇腹《わきばら》に、流は即座に拳を叩《たた》き込む。その一撃で相手は体を「く」の字に曲げ、コンクリートの壁にぶつかってくずおれた。  しかしその凄《すさ》まじい一撃を目の当たりにしたにもかかわらず、即座にもう一人の男が襲いかかってくる。今度は、金属の特殊警棒だ。 「つたく、冗談じゃない……っ!?」  警棒を素早くかわしたところで、流の全身を激しい電気ショックが襲う。  不覚にも、もう一人が押しつけてきたスタンガンを喰らってしまったのだ。 (あっちゃー、やべぇ)  コートの上から押しつけても、大人《おとな》一人を行動不能にできる強力な奴《やつ》だ。全身の力が抜け、がくんと膝《ひざ》が落ちる。そこへ、警棒の一撃。 「ちっ」  流は、その一撃を受ける覚悟をした。だが、そのとき。 「!?」  びりっと、流の全身を波動のようなものが通り抜ける。それは高圧電流に鈍った体にも、はっきりと感じられる強い力だった。 「な、なんだ……?」  見れば、少年たちの動きも止まっている。そしてすぐに、まるで糸が切れた操り人形のようにその場に倒れてしまった。 (いまのは……)  肉体、というよりは魂を震わせた波動。  しかし流がその正体を探るよりも早く、彼のそばを一陣の風が駆け抜けた。 「あ、おい!」  どこにそんな元気が残っていたのか、凄まじい速さで少女が走り去ってゆく。それとほぼ同時に、警官たちが走ってくるのも見えた。 「やれやれ、おいてけぼりほないだろ」  流はまだ痺《しび》れる体に顔をしかめつつも、ブルゾンとリュックを拾う。そして警官たちに捕まる前に、駆け出した。 「こうなったら、せめてデートの申し込みぐらいはさせてもらわないとな」  女の子がかきわけていった人垣を、流も慌てて走り抜ける。  警官が大声で止まるようにと叫んでいたが、流は無視して走り続けた。    3 恭子 「よォ、待ちなよ」  次の信号待ちで、流はようやく女の子に追い付くことができた。スタンガンにやられたこともあるが、彼女の脚がずいぶんと速かったことのほうが大きい。 「大丈夫かい?」  落ち窪《くぼ》んだ病的な両目で振り向かれ、思わず流はそう訊《たず》ねた。息もまだ荒く、明らかに憔悴《しょうすい》している。 「…………」  少女は不審そうなまなざしで流を見つめたまま、返事をしない。ただ身構えるように、少し腰を落としただけだ。 「おいおい、そんなに怖い顔しないでくれよ」  なるべく警戒心を解こうとして、流は両腕を広げて見せた。もちろん、笑顔も忘れない。 「……よく、追い付けたわわ」  不信感に満ちた双眸《そうぼう》が、流を見つめている。流はその理由に気がつくと、改めてにっこりと笑った。 「まだ痺れてるけどね。でも鍛え方が違うから、スタンガンぐらいはへっちゃらさ」  われながら嘘《うそ》くさいと思いながらも、流は自分の肉体を誇示してみせる。しかしその説明で少しは納得したのか、少女の身構えるような態度は和らいだ。 「そう……組織の追っ手じゃ、ないみたいね」  ほとんど聞き取れないような声だったが、流の耳はその言葉を拾っていた。 「組織?」 「なんでもないわ。さっきは、ありがとう」  今度は聞き取れる声で、礼を述べる。しかしその内容とは裏腹に、流に対する不信感が言葉には滲《にじ》み出ていた。 「でも、これ以上あたしには関わらないほうがいいわ」  そう告げる少女を見て、流は飢え、追いつめられた獣を連想した。彼を凝視する両目にも、怯《おび》えや不安といった色がはっきりと見える。 「わけありっぽいし、なにか手助けができるかと思ったんだけど……」  なんとか事情を聞き出そうとする流を押しのけ、少女は歩き出す。信号が、赤から青に変わっていた。 「まぁ、待てよ」  そう言って肩を掴《つか》んだ流の腕を、少女は乱暴に払い除《の》ける。 「触らないで」  威嚇《いかく》するように、少女は振り返る。 「あなたを心配して言ってるのよ……これ以上、関わらないで」  そう言ってすごむ女の子の目線は、かなり流に近い。百七十センチ程度はありそうだ。それに近づいてわかったことだが、髪の毛の色もどうやら自前のようだった。  外国の血が混じっているのだろう。目は灰色がかった茶色、髪も金に近い茶だ。やつれていることを差し引いても、顔の彫りは深い。  しかしその娘と流との睨《にら》み合いは、そう良くは続かなかった。貧血でも起こしたのか、女の子はふらりとよろける。 「おっと、あんまり無理しないほうがいいぜ」  流は咄嗟《とっさ》に体を受け止める。しかし女の子はその手を振りほどき、慌てて体を離した。 「触らないでって言ってるでしょっ」 「悪い悪い。けど、やっぱり事情を話してくれないか? なにか力になれると思うんだけど」  そう語りかけながら、流は改めて全身を見回す。意外にがっちりした体格、泥だらけのTシャッにジーンズ。春とはいえまだ夜は肌寒いというのに、上着は身につけていない。  それにやはり、その痩《や》せすぎた体は異常だ。まるで断食の荒行でもしたのかと思わせる。 「俺《おれ》は、水波流。みんなは流って呼んでる。あんたの名前は?」 「……恭子《きょうこ》」  これで諦《あきら》めてくれと言わんばかりに、少女は投げやりに名乗る。 「もういいでしょ。放っておいて」  恭子と名乗った少女は、赤に変わってしまった信号を見て、落胆する。  改めてまじまじと見てみても、痩せすぎなのと日本人らしくない容姿から、やはり年齢は特定できなかった。だが、流とそれほど離れているようにも思えない。  それにもうひとつ気になるのは、恭子が大事そうに持っている包みだ。 (あれを狙《ねら》ってたのか? よくわかんないけど、おかしな気配を感じるぜ)  恭子が胸の前でしっかりと抱きかかえている包み。そこからは、得体の知れない気配が感じられた。  流は、決してそういったものに敏感なほうではない。にもかかわらず、妖《あや》しげな気配をひしひしと感じる。 「そいつを、狙われてるのか?」  そう言って、流は包みに手を伸ばす。 「触るなっ!」  恭子が、凄《すさ》まじい勢いで流の腕を払った。しかし逆に、そのせいで包みに手が触れる。  そしてその瞬間、流はまるで全身に電撃が流れるような、激しい感情の奔流を感じた。 「なっ!? なん……っだ!?」  微笑《ほほえ》む恭子が、悲しむ恭子が、苦しむ恭子が、叫ぶ恭子が、痛みを堪《こら》える恭子が、躍動する恭子が、落ち込む恭子が、大輪の笑みを浮かべる恭子が、流の頭の中を駆け巡る。 �キョウコ! きょうこ! 恭子!�  誰《だれ》かの叫びが、流の魂を殴打する。激しい想《おも》いが、めまいとなって荒れ狂う。 「くっ……あ、おい! 待てよっ!」  再び信号が青になったことで、恭子はよろよろと歩き出す。流はまだふらつく頭を無理矢理押さえ、そのあとを追った。 「そんな体で、どこへ行く気だ?」  横断歩道の中ほどで追い付いたときには、もう不思議なめまいは消えていた。そんなことよりも、恭子のことが心配でならない。それはそれで、不思議な感覚だった。 「なあ、待ってくれよ」  なかば必死に、流は恭子の腕を取る。しかし恭子はそれを邪険に振り払い、流を突き放す。 「放っておいてって言ってるでしょ!」  横断歩道の真ん中で立ち止まり、恭子は流を睨《にら》み付ける。さすがの流も思わず黙るほど、その視線には殺気を帯びていた。  しばらく、二人の睨み合いが続く。しかしそれも、「ぐうぅっ」という間の抜けた音で中断された。 「あ……」  流が目を丸くしたのを見て、恭子の顔がだんだん赤くなっていく。そんな彼女の様子が妙におかしくて、流は思わず苦笑していた。 「わ、笑うなっ」 「おっと、ごめん。悪かった。それじゃさ、お詫《わ》びに食事でもおごらせてよ?」  流のその言葉に、恭子はびくりと反応する。 (お、手ごたえあり)  恭子が極度の空腹状態にあるのは間違いない。飢えている、というのが正確なところだろう。  さっき感じた不思議な感覚の正体が知りたいという想《おも》いも働いてか、流はこの少女から離れたくなかった。それにそもそも、興味の湧《わ》いた女の子を放っておくような男でもない。 「食べたいものがあったら、なんだって案内するぜ?」  最後のひと押しとばかりに、流はぱちりとウィンクする。それを見て、恭子は顔を赤くしてうつむく。 「なにがいい?」  その問いに恭子はしばらく逡巡《しゅんじゅん》していたが、しばらくして「肉」とだけ答えた。    4 現われた敵  焼き肉屋に入った恭子は、まさに獣のような食欲を見せた。  ユッケと生レバーを、もうそれぞれ五皿以上平らげている。肉も、焼けていようがいまいが、口へと運ぶ。 (金、足りるかな……)  流は少し、心配になる。 「……それ、生だぜ?」 「うん」  流が置いたばかりの肉を、恭子は躊躇《ちゅうちょ》なく箸《はし》でつまんだ。そしてタレも付けず、うまそうに口へ放り込む。 (どういう娘なんだ、いったい?)  初めこそ遠慮がちな様子を見せた恭子だったが、それも最初の一口までだった。現に、流はまだ三切れほどしか口にしていないのに、空になった皿は山積みだ。  いよいよ大皿から生肉を直接食べ始めた恭子を見やり、流はため息をつく。 (どう考えても、普通じゃないよな。まさか、妖怪《ようかい》だったりして)  恭子が放つ獣のような匂《にお》いが、流にそう思わせた。直感のようなものだ。  妖怪——文明社会に暮らす者ならば、一笑に付してしまうような話かもしれない。  だが、妖怪は実在するのだ。それは、やはり人間ではない流自身が、よく理解していた。  本当にいるかもしれないという�想い�が、妖怪を生む。闇《やみ》になにかが潜んでいるかもしれないと想う心が、妖怪を生む。  人が想えば想うほど、強い妖怪となる。だからこそ、現代のような時代ほど妖怪は多く生まれるのだ。特に東京のような人の多い街には、恐怖や強い想いも多い。それだけに多くの妖怪が生まれ、集っている。  しかし恭子が妖怪だとして、その正体まではわからない。同じ妖怪でも、流は人間の母と龍王《りゅうおう》の父を持つ半人半龍だ。スタンガンには耐えられても、正体を見破るような能力はない。 (さっきの連中も、どうにもおかしな感じだった。それに、あの包みだ……)  不思議な気を放つ、包み。やはりあれが狙われていると考えるのが、妥当だろう。 「それで話の続きだけどさ、どこにいくつもりなんだ?」  恭子は一心不乱に肉を食べながらも、一言「上野」とだけ答えた。 「まさか、上野まで歩くつもりだったとか?」 「まあね。あたし、お金なんて持ってないもの」  しれっとそう答える彼女に、流は唖然《あぜん》とする。財布の心配もそうだが、まず上野まで歩こうという発想に驚いたのだ。 「上野に、なにかあるのかい?」 「知らないほうが、身のためよ」  恭子は顔も上げず、そう告げる。どうにも、取りつく島もない。 「しっかしこの店、いつもはもっと込んでるのになぁ。最近、人気ないのかな?」  間が持たなくなった流は、店内をぐるりと見回す。  店に入ったときは、それなりに込んでいた。なのに片目に傷のある男が入ってきたのを最後に、次の客が入ってこない。団体客が入れ替わるように帰ってからは、店内はどうにも閑散としていた。  店舗自体はそこそこ広い。食堂ばかりが入ったビルの四階で、雑誌に紹介されたりして評判もいい。しかし残っているのは陰気そうな学生たちが十人程度と、片目に傷のあるスーツ姿の男だけだ。 (顔の傷さえなければエリート社員って感じだけど、あれじゃヤクザでもビビリそうだぜ)  顔の左側に走る三本の傷跡。まるで、熊にでも襲われたかのようだ。  その傷のせいかもしれないが、流はその男に興味を引かれた。それにどうも、こちらを見られているような気もする。 (それに……)  陰気そうな学生たち。まるで定められたプログラムをこなすかのように、淡々と肉を焼き、淡々と口へ運んでいる。しかも会話らしい会話も、なかった。 (どうなってんだ?)  そう思ったときだ。はっきりと、流の目と男の目が合った。 (あん……?)  流の視線に気がついた男は、にやりと笑う。少々のことでは動じない彼も、その視線に悪寒のようなものを感じた。 「何もん——」 「うあっ!」  流が訝《いぶか》しげに目を細めた瞬間、恭子が悲鳴をあげる。それと同時に、積み重ねた皿が床に落ちて派手な音を立てた。 「なんだっ!?」  男に気を取られていた流は、慌てて恭子のほうを振り返る。  彼女の背後には、店内の学生たちが集まっていた。手に手に持った肉切り包丁や鉄串《てつぐし》などで、背後から恭子を突いたのだ。 「どうなってんだ、こりゃ!?」  流は叫ぶや否や、恭子の背後にいる男たちに飛びかかる。テーブルを飛び越しざまに男たちを蹴飛《けと》ばし、薙《な》ぎ倒す。 「くあああっ!」  背中に鉄串を突き立てたまま、恭子も立ち上がった。それと同時に、さらに鉄串を振りかざす学生を殴り倒す。 「くくく……」  その笑い声を聞いて、流は振り返る。  さきほどの男だ。口許《くちもと》は楽しそうに笑っているが、目はまったく笑っていない。 「満月とはいえ、まさか逃げ出すとはな……おまえに驚かされるのは、これで二度目だよ」  スーツ姿の男は、少し困った様子で肩をすくめる。しかし男が発する殺気を、流ははっきりと感じていた。 「けど、逃がしはしないよ……おまえは、わたしのものだ」  男が低い声でつぶやくと同時に、店中の者たちが二人を取り囲み始める。 「大上、賢三《けんぞう》……」  恭子は体に刺さったままの鉄串を引き抜き、獣のような目でスーツ姿の男を睨《にら》み付ける。  彼女の表情は、まるで修羅のようだった。怒りが、殺意となって滲《にじ》み出ている。 「おまえには、わが計画の礎《いしずえ》になってもらわねば困る。おまえの母や、あの男のようにな」 「きさま……」  ぎりりと、恭子の奥歯が鳴る。怒りに切れそうな理性を、必死に押さえている様子だ。 「いいぞ、恭子。怒りと憎しみが強いほど、ゴミのごときおまえらでも役に立つ」 「おい、おっさん」  睨み合いを続ける恭子を押しのけ、流は一歩前に出た。怒りのためか、眉間《みけん》に深い皺《しわ》が寄っている。 「邪魔をするな、小僧」 「いい気になってんじゃないぜッ!」  小馬鹿にしたような男の態度に、流はカッとなって駆け出した。その短気さは、自分でも驚くほどだ。  しかし、動き出した体は、止まらない。 「流、やめろっ!」  恭子の叫びも無視して、流は殺気のこもった拳《こぶし》を放つ。だが大上はその一撃を何気なく左の手のひらで受け止め、そのまま掴《つか》んだ。 「いいパンチだが、まだ少し脇《わき》が甘いな」  大上は拳を引き寄せ、逆に右の掌底を流の胸に叩《たた》き込む。 「がっ!?」  その一撃は、八十キロはある流の体を軽々と吹き飛ばした。流はテーブルを薙《な》ぎ倒し、壁に叩き付けられる。 (ぐぁっ……か、体が、動かない!?)  人間ならば、充分KOできる一撃だった。だが強靭《きょうじん》な流の肉体は、その程度で気絶はしない。なのに、体が動かない。 (か、金縛りか……?)  意識も、視界もはっきりとしている。だが、体だけが動かない。 「女を捕まえろ」  大上が指示を出すと、学生たちが恭子へと群がってゆく。しかし普通の人間である学生たちに彼女を取り押えられるはずもなく、次々と薙ぎ倒される。 「いい動きだが、そこまでだ」  その隙《すき》に、大上は間合いを詰めていた。死角から、恭子の顔面に拳が叩き込まれる。それで、彼女の動きが鈍った。 「ぐ……ききまっ」 「さすがに元気がいいな」  反撃しようとする恭子の顔面に、大上は二度、三度と拳を打ち込む。その一撃ごとに動きが鈍り、膝《ひざ》が折れる。 「おまえごときで、このわたしに勝てると思ったのか?」  必死に反撃を試みる恭子の拳を軽く受け流し、大上はがらあきの腹に膝を叩き込む。 「うぐっ」 「一族の中でも程度の低いおまえに、重要な役目を与えてやろうというのだ。もう少し喜んだらどうだ?」  くずおれる恭子の顎《あご》を、大上は容赦なく蹴《け》り上げる。 「立たせろ」  たまらず床に膝をついた恭子を、学生たちは無理矢理立たせた。彼女の顔は腫《は》れ上がり、鼻血が流れている。しかし体はぐったりしているものの、その瞳《ひとみ》から戦意は失われていなかった。 「その目だ……」  大上はそうつぶやくと、おもむろに自分の左目に指を突っ込んだ。ぐりっと捻《ひね》り、眼球を抜き出す。 「おまえのせいで、わたしの左目はこのとおり潰《つぶ》れてしまったよ! どれほど痛かったか、おまえにも味わわせてやろう!」  大上は義眼を口に咥《くわ》えると、「カカカカッ」と笑った。流の背筋に、思わず悪寒が走る。  大上は手近な鉄串《てつぐし》を拾うと、恭子の髪を鷲掴《わしづか》みにする。そして敵意をむき出しにしている恭子の目を、覗《のぞ》き込んだ。 (まさか!?)  流は予想される凶行を止めようと、全身に力を入れる。だが体は言うことを聞かず、まるで身動きが取れない。 「カカカカカカッ!」  奇妙な笑い声と共に、大上は恭子の左目へ鉄串を刺し入れた。それも、ゆっくりと。 「うぐっ……うぁっ」  くぐもった恭子の悲鳴が漏れる。大上はそれを楽しむように、じっくり鉄串をこね回す。 「くぁっ」  大上は、たっぷり時間をかけてこじってから、鉄串を抜いた。その先には、血の滴る白い球体が刺さっている。 「おまえでも、少しは痛いか? だがわたしの目は永久に戻らん。おまえとは違ってな」  大上は義眼を吐き出し、憎々しげにつぶやく。そして鉄串から眼球を抜き取ると、自分の眼窩《がんか》に入れた。 「恩を仇《あだ》で返すとは、まさにおまえのことだな。だが、償いはさせてやる」  顔に走る傷を指でなぞり、大上は恭子の髪を引っ張って自らの目線に合せる。 「今度は絶対に逃がさん。じっくりいたぶってから、蠱毒《こどく》としてくれる」  潰れた瞳《ひとみ》でにたりと笑う大上の姿は、もはや正気のものとは思えなかった。 (動きやがれ、俺《おれ》の脚っ)  このままでは、恭子は連れ去られてしまう。それを黙って見過ごすなど、我慢できない。 (せめてっ)  流は念じ、水をイメージした。彼の中に流れる龍神《りゅうじん》の血、そこに眠る水の力を。  龍は雲に乗り、雷を撃ち、雨を降らせる。そしてその力を、流も受け継いでいた。 (ぬぁっ!)  集中した気を、大上目掛けて放つ。直後、それは大量の激流となって大上たちを押し流した。 「うあっ、なにっ!?」 「恭子っ、逃げろ!」  声が、出た。鈍いながらも、体も動く。 「小僧ォ!」  激流に吹き飛ばされた大上が、憤怒《ふんぬ》の形相で立ち上がる。だがそれよりも早く、恭子は学生たちを蹴散《けち》らして流へと駆け出していた。 「俺《おれ》なんか放っといて、逃げろっ」  流は、必死に叫ぶ。しかし恭子は意に介さず、流の襟首を掴《つか》んだ。 (な、なんだって!?)  重い自分の体を抱えては逃げ切れない、流はそう考えていた。しかし恭子は軽々と流の体を担ぎ、窓へと突進する。 「お、おいっ!」  学生たちが道を塞《ふさ》ぐが、恭子はそれも蹴散らして窓を突き破り、店外へと飛び出す。 「こ、ここは四階だぞっ!」  流がそう叫んだときには、すでに夜空の中だった。 「うわああぁぁっ」  流は、空を飛ぶ能力もある。しかし金縛りのせいか、思うように力が使えない。 「っ!!」  どしんっと、全身に衝撃が走る。だが不思議なことに、体のどこにも痛みはなかった。 「これでわかったでしょ?」  見上げれば、恭子の顔がある。落ち着いて首を巡らせてみると、流は恭子に抱きかかえられて路上にいた。さながら、ヒーローに救い出された少女のように。 「これに懲りたら、もう追いかけてこないでね」  恭子は流を立たせると、茫然《ぼうぜん》としている通行人を尻目《しりめ》に駆け出す。その後ろ姿を見て、流はきまり悪そうに頭を掻《か》いた。    5 蠱毒『犬神』  晴れた夜空にぽっかりと浮かぶ月を、恭子はタクシーの窓越しに見上げていた。満月よりは、少し欠けている。もう一月待たないと、次の満月は来ない。  恭子は、流と二人でタクシーで移動していた。結局追いかけてきた流に、なかば強引に乗せられたのだ。  歩くより速いし、敵にも襲われにくいだろう。厄介ごとは、少ないにこしたことはない。  しかしそれ以上に、彼女から離れたくないという気持ちが強く働いたことを、流は自覚していた。 (どう考えたって、彼女は人間じゃない)  薄々感じてはいたが、ビルから飛び降りた一件で確信した。恭子は、妖怪《ようかい》だ。正体は不明だが、それだけは間違いない。  流は少しでも手がかりはないものかと、恭子を見た。ざっくりとしたブルゾンが、彼女の活動的なイメージを強めている。傷をごまかすために、タクシーに乗せるときに着せたものだ。 「……なに? じっとこっちを見て」 「あ、いや、月を見上げるきみがあんまり魅力的だったものだから、ついね」  流は咄嗟《とっさ》に、軽口を叩《たた》いた。突然恭子に振り向かれて、少し驚いたというのが本音だ。 「馬鹿言わないで」  しかし彼女は流の内心には気付かず、怒ったようにそっぽを向く。  もっとも、流の言葉に嘘《うそ》はない。実際、恭子は魅力的な女の子になっていた。  全体的にスレンダーなのは変わらないが、明らかに体格がひと回り大きくなっている。先刻の栄養失調ぎみだった印象はかけらもなく、筋肉質な体は健康的で野性味がある。  顔色も、もうすっかり血色がいい。腫れも引いている。きりりと吊《つ》った太めの眉毛《まゆげ》と、大きな目がなんとも意志が強そうだ。 「上野についたら、あなたはすぐに帰って。これ以上は、命の保証はできないわ」  振り返った彼女の瞳《ひとみ》は、真剣だった。先ほどの一件からも、誇張とは思えない。 「……さっきは不意を喰らったからね。それにこれでお別れってのも、寂しいだろ?」  そう答える流に、恭子はなにも言わない。勝手にしろ、ということなのだろう。  それに流を驚かせているのは、なにも容貌《ようぼう》のことだけではなかった。  流がブルゾンを着せたとき、恭子の傷はすでに消えていたのである。傷痕《しょうこん》すら判然とせず、服が血に汚れていなければ、怪我《けが》をしたことすら忘れてしまいそうだった。  それに閉じている左目も、すでにまぶたが膨らんでいる。眼球が、再生しつつあるのだ。 (いくらたらふく食べたからって、体がそんな短時間でもとに戻るわけがない。それに、普通目玉まで治ったりはしないぜ……)  流はナイフで切られた頬《ほお》の傷を指でなぞり、まだ治っていないことを確認する。 「運転手さん、ラジオのボリューム、思いっきり上げてくれないかな?」  流の要求に答えて、運転手は無言でラジオのボリュームを上げる。音楽中心の番組らしく、アップテンポの曲が車内を包む。 「そろそろ本当の目的、教えてくれないか?」  尋ねる流の声は、ラジオの音にかき消されて恭子にしか聞こえない。しかし恭子は思案しているのか、しばらく黙っていた。 「……復讐《ふくしゅう》、ね」  小さな声で、短くつぶやく。 「復讐?」  聞き返す流に、恭子は小さくうなずいた。 「あたしの所属していた組織は、ある計画のためにあたしたちをあいつに売ったわ」  少し、沈黙。 「大上賢三——組織はあの男のいう『犬神計画』に協力することにしたの」 「犬神計画?」 「蠱毒《こどく》って、知ってる?」  そう聞かれて、流は少し考えを巡らす。 「蠱毒って、虫や動物を使う呪《のろ》いじゃなかったっけ? 皿に盛ったたくさんの毒虫を殺し合わせて、最後に生き残ったやつの毒を使うとかっていう……」 「一般人のわりには物知りね」 「あんまり、一般人でもないけどね」  その答えに、恭子は横目でちらりと流を見る。  タクシーはそろそろ、飯田橋にさしかかっていた。このまま何事もなければ、上野までもういくらもかからないはずだ。 「犬神計画というのは、犬を使った蠱毒『犬神』を用いる計画のこと。もっとも毒といっても、飲ませたりするわけじゃないんだけど」  それは、流も知っている。蠱毒というのは、どちらかというと呪いの一種だ。触媒となる生き物を徹底的に苦しませた末に殺し、その怨念《おんねん》を利用する。  つまりは怨念という強い�想《おも》い�が生んだ、危険な妖怪《ようかい》を、である。 「この蠱毒は、犬神っていう物《もの》の怪《け》をたくさん放つ。こいつに憑依《ひょうい》されると粗暴な性格になって、犬神使い——つまり犬神筋の者に操られるようになるわ」 「じゃあ、新宿で襲ってきた連中も……」 「たぶんね。目的のない無気力な奴《やつ》ほど、犬神には取り憑《つ》かれやすいもの」  ならば駅前の連中や、焼き肉屋の学生たちの奇行もうなずける。 「もちろん手順や方法を知っていれば、憑き物を落とすこともできる……少し、準備や精神集中が必要だけど」  恭子と出会ったとき、彼女はそれを狙《ねら》っていたのだろう。そしてそれが成功したからこそ、少年たちは一斉に倒れたわけだ。 「で、あの店の男が、大上って奴なんだな?」  流の言葉に、恭子は黙ってうなずく。包みをぎゅっと抱きしめ、表情は険しい。 「あいつには、あたしでは勝てない……レイですら、勝てなかった……」  それ以上、言葉にならない。怒りとも悲しみともつかない感情で、体が震えている。 「レイっていうのは?」 「親を失ったあたしを拾ってくれたのが、レイ。それからは、いつも一緒だった……」  恭子は包みを強く抱きしめ、唇を噛《か》む。 「……それで、どうやって復讐《ふくしゅう》をする?」  流の言葉を聞き、恭子は顔を上げる。そして灰色がかった茶色の瞳《ひとみ》を、流に向けた。 「犬神を、送り返す」 「犬神を……? じゃあその包みの中身が、例の蠱毒《こどく》なわけか?」  流の言葉に、恭子は黙ってうなずく。 「犬神たちは、あいつにしもべとして支配されているわ。この支配を解放すれば、犬神たちはすべてあいつに襲いかかるはず」 「支配の代償って奴《やつ》だな」  人を呪《のろ》わば穴二つ、というわけだ。 「蠱毒は新宿と上野に埋められた……全部取り戻せば、あいつを守る犬神はいなくなる」  それで上野を目指していたのか——改めて流は納得する。 「それで、大上って奴も必死なんだな」 「ええ。それに犬憑《いぬづ》きになっている人間の目を通じて、犬神使いはものを見ることができる。だから、どこから見られているか……」  恭子がそう言った瞬間だった。  タクシーに、がつんと衝撃が走る。 「なにっ、バイク……感付かれた!?」  いつのまにか、タクシーは数台のバイクに取り囲まれていた。持っている鉄パイプで、車体を殴りつけてきたのだ。 「やべえっ!」  流がそう叫んだ瞬間だ。運転手はハンドルを切り損ない、歩道に乗り上げる。タクシーはそのまま電柱に激突し、衝撃とともに停止した。二人は激しく前部座席に叩《たた》き付けられ、反動で後部座席にぶち当たる。 「うあちちち……無茶しやがる」  流はドアを蹴《け》り開け、恭子を引っ張り出す。運転手は気絶しているらしく、動かない。 「恭子、大丈夫か?」 「ええ、なんとか……」  打ち所が悪かったのか、恭子はふらふらしていた。そうやっている間にも、バイクから降りた連中が回りを取り囲む。 「どけよっ!」  車外に出た流は、正面の革つなぎの男を蹴倒す。そしてもたつく恭子の腕を掴《つか》み、走る。 「なにっ!?」  その直後だった。強烈なヘッドライトが、流の目をくらませる。激しいエンジン音と共に、一台のバイクが突進してきたのだ。  風を切り、バイクは流の脇《わき》をすり抜ける。  ドガッ、という激突音。その瞬間、流の手から恭子の腕が離れていた。 「恭子っ!」  振り返ったとき、恭子は派手に宙を舞っていた。そして真っ逆様に、コンクリートの路面に頭から叩《たた》き付けられる。 「恭子っ!……てめぇらぁ」  男たちは、恭子の腕からこぼれた包みを狙《ねら》っていた。流が駆けつけるより早く、革ジャンの男が包みを掴《つか》む。  だがそのとき、ぴくりとも動かなかった恭子が、その腕を掴んだ。 「ぎゃあっ!」  革ジャンの男が、悲鳴を上げる。恭子はその男の腕を掴んだまま、ゆらりと立ち上がった。  頭からの出血で、全身血まみれだ。しかも、頭がだらりと胸の前に落ちている。  ——首の骨が、折れているのだ。 「恭……子?」  その異様な光景に、流の脚は思わず止まった。恭子の体から発せられる妖気《ようき》に押されたのか、男たちの動きも止まっている。  ゆっくりと、恭子の頭が起き上がる。代わりに、姿勢が前傾してゆく。  めりめりと、奇妙な音がした。  恭子の、上半身から聞こえる。  がはあああああぁぁぁぁ……  彼女の口から洩《も》れる、獣のような吐息。  髪の毛が、ざわざわと逆立つ。  いや、それは髪だけではなかった。恭子の腕からも、背中からも、金に近い茶色の毛が生え、逆立っている。  恭子が、ぎらりと輝く瞳《ひとみ》を上げたとき。  そこには、上半身を獣と化した人間の姿があった。 「人狼《じんろう》……」  恭子の上半身は、巨大な狼《おおかみ》の姿となっていた。茫然《ぼうぜん》とする流の前で、恭子は掴んでいた男を吊《つ》るし上げ、殴る。 「がっ」  男はまともな悲鳴を上げることすらなく、宙を舞った。優に五メートルは吹き飛び、流の足許《あしもと》に叩き付けられる。 「こいつは……」  その一撃には、明らかな殺意があった。いや、破壊への衝動とでもいうのだろうか。力任せの、無造作な一撃だ。 (正気を、失ってる……?)  凄《すさ》まじい形相の恭子を見やり、流は茫然《ぼうぜん》と思う。だが暴漢たちが動き出した瞬間、流はわれに返った。 「おまえら、うっとぉしいぜッ」  吹き飛ばされた男の手には、まだ包みがある。流は咄嗟《とっさ》にそれを拾い、奪い取ろうと掴《つか》みかかってきた暴漢を蹴り飛ばす。 「くそっ」  その衝撃で、包みが破れた。流は間一髪で飛び出た中身を掴む。 「な、なんだこりゃ!?」  それは、半分に割れた大型犬の頭蓋骨《ずがいこつ》だった。気味悪くはあったが、流はそれを素早くリュックにしまい込む。  しかし流の関心は、すぐに頭蓋骨よりも烈風のように暴れ狂う恭子へと移った。 「恭子っ!」  そう叫ぶ流の声も耳に入らないのか、恭子だった人狼《じんろう》は颶風《ぐふう》のごとく駆け回る。  襲いかかる男たちを、無造作に鉤爪《かぎづめ》で引き裂き、蹴飛ばし、咬《か》みちぎる。操られている男たちは自分の意志で逃走できないだけに、悲惨だった。 「もうやめろ、恭子っ!」  流は暴れる恭子を取り押えようと、背後から掴む。動けるのは、もはや流だけだ。なのに、恭子は暴れるのをやめようとしない。 「ゴアアアアアッ!!」  恭子は凄まじい力で流を振り払い、鉤爪を振るう。まるで、見境がない。 「恭子、正気を取り戻せっ!」  流は両手を広げ、恭子の前に立ちはだかった。しかし恭子は容赦なく、流の胸を鉤爪で薙《な》ぐ。 「恭……子っ!」  流は深々と胸をえぐった腕を、がっちりと抱き止める。それでも恭子は反対の腕で、さらに流の腹を引き裂いた。 「もう……いいんだ」  爪が内臓にまで達したのか、口から血の泡が溢《あふ》れる。だが流は、諭《さと》すような落ち着いた表情で、人狼と化した恭子の目を見つめた。 「もう、大丈夫だ……きみを傷つけるやつは、もういない」 「あ……」  恭子の目に、正気の光が宿る。徐々に体から剛毛が消え、もとの野性味ある美しい顔が、流を見上げる。 「あたし……」  恭子は力つきたように流の胸にくずおれた。流はそっと、そんな恭子の体を抱く。 「俺《おれ》がいるから、大丈夫だ」  流の胸に顔をうずめ、恭子は小刻みに震える。しかしそれも、ゆっくりと治まってゆく。  流の厚い胸が、力強い腕が、恭子を安心させる。その匂《にお》いが、気持ちを落ち着かせる。 「……ごめんなさい」  流の胸を、一筋の涙が濡《ぬ》らす。 「ごめんなさい……レイ」  恭子はそうつぶやいて、意識を失った。    6 レイ  流の腕時計が、十二時の時報を打つ。日曜の深夜だけに、人通りは少ない。  タクシーの事故と乱闘騒ぎのためか、パトカーや救急車が走り抜けてゆく。それを横目に、流は恭子を抱えて上野を目指していた。 (結局、歩くのが一番確実とはね)  もう後楽園は越えている。上野へは歩いて行けない距離ではないが、恭子を背負ってというのは少し辛《つら》い。しかし大上がなりふり構わない以上、公共の手段は使いたくなかった。 「レイ、か……」  つぶやき、頭を振る。  流の胸は、血で真っ赤に染まっていた。いまも出血は止まらず、足取りもおぼつかない。 「思ったより、ざっくりやられたみたいだな……」  出血のためか、目の焦点が合わない。いかに龍《りゅう》の血を引いているとはいえ、流は半分人間だ。疲労もあれば、出血で気絶もする。  そしてもちろん、死ぬことだってある。 「こんなところ、敵に襲われたら……」  思わずつぶやいてから、ぞっとする。しかしどうやっても、体から力が抜けていくのを止められない。 「どこかで、少し休むか……?」  少しあたりを見渡し、耐えられなくなってブロック塀にもたれかかる。だがとうとう自分の体重を支えられなくなり、流はずるずるとゴミ置場のそばに座り込んでしまった。 「もうちょっと、ましなところでないと……」  再び立ち上がろうとして、流は果たせなかった。  全身がだるく、力が入らない。目がかすみ、焦点が定まらない。 「いよいよ、まずくなってきたな……」  意識が、遠退《とおの》く。泥のような眠気にも似た靄《もや》が、意識を覆い隠す。 (このままじゃ……)  流は必死に頭を振り、もう一度立ち上がろうと試みる。  今度は、よろりと立ち上がれた。足許《あしもと》がおぼつかず、めまいも続いている。けれど、立ち上がることはできた。 (あれ……)  見れば、腕の中に恭子がいない。それどころか、まるで自分の腕が自分のものではないような違和感がある。 「俺《おれ》は……」  記憶も、曖昧《あいまい》だ。自分がなにをしようとしていたのか、なにがしたかったのか、それさえ判然としない。 「俺は、誰《だれ》かから逃げようとして……いや、誰かを追っていた?」  自分が傷つき、血で汚れているのはわかる。しかしなぜそんな負傷を負ったのか、それが思い出せない。 (恭子……)  その名前だけが、頭の中に残っている。だから、流はその存在を求めてあたりを見回した。 「きみは……」  ゴミ置場の一角に、一人の少女がいた。薄汚れ、着ている衣服もぼろぼろになっている。歳《とし》の頃《ころ》は、まだ十歳にもなっていないだろう。  そんな少女が、なにかに怯《おび》えるようにしてうずくまっていた。震えているのは、決して寒さだけではないはずだ。 「こんなところで、どうしたんだい?」  思わず、そう声をかける。それで初めて相手の存在に気がついたのか、少女はびくりとして顔をあげた。 「きみ……」  次の声をかけるより早く、少女は獣のように身を引いた。追いつめられた動物のように、身構えたまま恐怖に満ちたまなざしを投げかけてくる。 (この娘は……)  落ち着いて見てみれば、少女の服には点々と血痕《けっこん》がついていた。顔も血で汚れ、右手を斑《まだら》に染めているのも、明らかに血だった。 「どうしたんだい、そんなに怯えて? 俺はきみを、傷つけたりはしないよ?」  優しい声でそう告げて、敵意がないことを示すために腰を落とす。しかし少女は警戒を解かず、低い唸《うな》り声をあげて身構えたままだ。 「しょうがないやつだな」  にっこりと笑い、地べたに座る。だがいっそう追いつめられたとでも思ったのか、少女は突然奇妙な叫び声をあげた。 (!?)  獣——まるで狼《おおかみ》の咆哮《ほうこう》のような、叫び。その叫びと共に、少女の体に異変が起きた。  髪の毛がざわざわと逆立ち、上半身が剛毛に覆われる。そして愛らしい少女の顔は、血に飢えた狼のものに変わっていた。 (人狼《じんろう》!?)  そう思った瞬間、少女は跳躍した。鋭い鉤爪《かぎづめ》が、横薙《よこな》ぎに胸を薙ぐ。 「っつ」  服が裂け、血がしぶく。だが、少女をどうこうしようとは考えなかった。 「よっぽど怖くて、悲しい目にあったんだな。でも、もう心配はいらないよ。俺《おれ》も、きみの仲間なんだから」  そう告げると、まだ警戒している少女の前でゆっくりと大の字になった。無防備に腹をさらし、少女をどうこうする意志がないことを訴える。  そしてその上半身からは、じわりと剛毛が生え始めていた。少女と同じような、獣の毛が。 (なんだ……!?)  流はそのとき、ようやくそれが自分ではないことに気がついた。  いや正確にいうと、それは自分の記憶ではなかった。流の中にある、誰《だれ》かの記憶。誰かの思い出が、流の中に流れ出している。 「まだ、自分の力に、自分そのものに、戸惑いがあるんだろう? 初めは誰だってそうさ。俺だって、最初は驚いたし、自分の姿を嘆きもした」  自分と同じく人狼と化していく男を眺め、少女は怯《おび》えながらも動けないでいた。恐怖や好奇心といったものが、彼女の動きを制限しているのは間違いない。  しかしそれ以上に、彼女を引き止めているのは、男に対する�仲間�への想《おも》いだった。 「帰るところがないなら、俺といっしょにおいで。そこには、俺の仲間がいる。それは、もちろんきみの仲間でもあるんだ」  無防備に腹をさらしたまま、人狼は語った。その優しい声に、少女の警戒心がやわらぐ。 「おいで。自分を見失ったまま、獣になっちゃだめだ。ね?」  少女はゆっくりと、男へと近づいてゆく。それを見ながら、男はただじっと動かなかった。 「ほら、空を見てごらん。こんな東京のど真ん中でも、月は見えるだろう?」  見上げれば、そこには真円を描く月があった。少女はその神秘的な美しさに、怯えも恐怖も忘れ、見入る。 「人ばかりを見るから、人が怖くなる。街ばかり見るから、世界が狭くなる」  月を見上げ、男は静かに言葉を続ける。 「でも、本当は世界は広いんだ。こんな姿の俺たちだって、自由に暮らせる場所がある。好きになってくれる人がいる。愛してくれる仲間がいるんだ……」  男は言葉を切り、少女を見た。そしてゆっくりと獣化を解き、再びにっこりと笑う。 「月は、誰《だれ》の上にもある。だから、月がみんなを見るように、きみも世界の声に耳を澄ますんだ。そうすれば、怖いものなんてなくなるよ」  そう告げる男を見下ろす少女から、もう警戒心は消えていた。ただ寂しさと、悲しさだけが、その両目には溢《あふ》れていた。 「大丈夫……きみを傷つけるものは、もう、いない」  力強い、言葉。 「さあ、ゆっくりと自分を思い出して。どんなことがあっても、俺がきみを守ってみせるから」  そこで初めて、男は手を差し伸べる。その手の大きさ、優しさを前に、少女の姿がゆっくりともとに戻ってゆく。 「……いい子だ」  男は伸ばした手で、少女の涙で濡《ぬ》れた頬《ほお》を撫《な》でる。 「ごめん……なさい」  思わぬ少女のつぶやきに、男は驚いたように目を丸くする。しかしすぐににっこりと笑うと、少女を抱き寄せた。 「いいんだよ。気にしちゃいけない」  初めは少し身を固くした少女も、すぐに安心したかのように力を抜いた。男の胸にある匂《にお》いが、たとえようもない安心感を与えてくれる。その広い胸が、力強い腕が、すべてを包み込んでくれる。 「ごめんなさい……」  もう一度つぶやき、少女は男の胸にある傷口をそっと舐《な》めた。男は一瞬びくりとしたが、傷口が洗い落とすように消えてゆくのを見て、今度こそ本当に驚いた。 「……きみは、やっぱり優しい子だ」  男は少女の頭を撫で、小さく笑う。 「俺の名前は、レイ。きみは?」  その言葉に、少女は顔をあげる。そしてしばらく、男の目を見つめていた。 「……きょうこ」  消え入りそうな、小さな声。けれど、レイは黙ってうなずく。 「よし、じゃあ家に帰ろうか。今日は、もう遅いもんな」  レイは恭子を抱いたまま、立ち上がった。傷の痛みは、もうほとんどない。  しっかりと首に抱きついた恭子を見下ろし、レイは微笑《ほほえ》む。そして超人的な跳躍を見せたとき、流の意識は覚醒《かくせい》した。    7 真相 「恭子……?」  目を開いてみれば、流の胸にかぶさるようにして、恭子が眠っていた。  凄《すさ》まじい再生能力を持つ人狼《じんろう》だけに、彼女の傷はもうほとんどが癒《い》えている。しかし不思議なのは、流の胸の傷まで、きれいに治っていることだった。 「いまのは、夢か……?」  流はかすかに残る傷口を指でなぞり、痛みすらほとんどないことに驚く。しかし少女が優しぐ傷を舐《な》め、癒《いや》してくれた感触だけは残っていた。 「いや、現実……それとも」  はだけた胸に頬《ほお》をつけて眠る恭子を見て、流は少し混乱した。  果たして自分は、なぜ彼女をここまで必死に守ろうとするのだろうか。女の子に対する義務感は、生まれついてのものだ。だが、今回はそんな単純なものとも思えない。そしてそれが、本当に自分の中からだけ、出てきたものなのかもわからない。 「レイ、か……」  流は腕時計に目をやり、意識を失ってからほとんど時間がたっていないことを確認する。そして恭子を一度地面に降ろすと、そっと背中に担いだ。 「あ……流?」 「悪い、起こしちゃったか」  流は首を巡らせ、背中の恭子を見る。まだその表情に疲労はあったが、顔色はわりとよくなっている。 「でも、もう元気になってるなんて、さすがに人狼はタフだよな」  流の�人狼�という言葉に、恭子はぴくりと反応する。 「心配するなって。どうせ俺《おれ》も、普通の人間じゃないんだ」 「……」  流のセリフに、恭子は沈黙で答える。 「きみだろ、俺の傷を治してくれたのは」  なるべく明るい調子で、流は告げた。その言葉に、恭子が背中でうなずくのを感じる。 「……ありがとう、おかげで命拾いしたよ」 「ううん、それはあたしのセリフ。あなたがあたしを止めてくれなければ、いまごろどうなっていたか……」 「気にすんなって。困ったときは、お互い様さ」  わざと軽い口調で、流は笑い飛ばす。けれど、流の笑いもすぐに沈黙した。 「あの頭蓋骨《ずがいこつ》……」  沈黙を破って、流が切り出す。その言葉に、恭子はびくりとなる。 「レイ、っていったっけ……彼のものなんだろ?」  恭子はただ、無言でうなずく。 「それで、残り半分が、上野にあるんだな?」 「うん……上野公園の、弁天堂に……」  流の肩にあるリュック。恭子はそれにそっと触れ、小さく首を振った。 「レイは、母を亡くして心を失っていたあたしを助けてくれた……レイがいなければ、あたしは人喰《ひとく》い狼《おおかみ》になっていたかもしれない」  恭子の言葉に、流はさっき見た夢が、ただの夢ではないだろうと思った。そしてそれだけに、仲間を得た喜び、そして裏切られ、大切な仲間を殺された怒りや悲しみといったものも、はっきりと感じられる。 「母さん、死んじまったのか……」 「ええ……」  短い返事の中にも、悲しみより強い怒りが感じられる。その怒りは、背中越しでも流をはっとさせるほど、強い。 「母さんは、あたしが八歳のときに殺された」 「殺された?」  流の肩を掴《つか》む手に、力が入る。 「母も、人狼《じんろう》だった……ただ獣化できるだけの、ほとんど人間と変わらない人だったけど」  流は黙って、次の言葉を待つ。 「でも、優しいいい人だった。それを、あいつが……大上賢三が、殺した」 「あの、男が……?」  恭子の奥歯が、ぎりりと鳴る。 「あたしの名は、大上恭子——賢三は、あたしの父だ」 「なんだって!?」  流は思わず、声を上げる。 「犬神筋の復活を望むあの男は、可能性があることならなんでもしたわ。獣人と交わったのも、それだけの理由だった」 「犬神筋?」 「犬神をその身に憑依《ひょうい》させ、人外の力を得ることができる一族よ」  流は、それであの男が不思議な力を使う理由が理解できた。 「昔は地方の豪族や、ときには国を動かすような権力のあるものたちすら、犬神筋によって操られていたらしいの……でも、その血筋も絶えて、いまでは大上ただ一人……」  淡々とした口調で、恭子は続ける。 「あたしはその犬神筋を絶やさないため、そしてより繁栄させるためだけに生まされた、子なの……」 「そんな……っ」 「でも、あたしには犬神筋の力は少しも発現しなかった」  そう告げる声は、氷のように冷たい。 「あの男は、あたしが覚醒《かくせい》するのを八年待った……その間、あたしにもいろんな蠱毒《こどく》を作らせたわ。可愛《かわい》がっていた小犬すら、目の前で殺されて、蠱毒にされた」  幼い子供にとって、どれほどのショックがあっただろう。流は、言いようのない怒りが湧《わ》き起こるのを、止められなかった。 「焦っていた賢三は、いらいらをいつも母にぶつけていた。外見こそまだ若いけど、もう百年以上生きているらしいもの……いつ死んでもおかしくないでしょうね」  大上は強力な犬神という物《もの》の怪《け》を操るが、その本体は人間だ。妖力《ようりょく》で若さを保てても、人間という入れ物の上限は越えられはしない。 「でも、そのせいで大上の乱暴ぶりはどんどんエスカレートしていった。それを見ながら、あたしはあいつを恐れ、憎みながら育ったわ」 「それで、きみの母さんも……」 「あの男に殴られて、死んだ。母さんは、ほとんど人間と変わらない人だったのに……」  混血が進み、血の薄まった獣人の力は弱い。彼女の母親も、そうした人狼《じんろう》だったのだろう。 「そしてそのとき、あの男は——大上賢三は、人狼を蠱毒にすることを思いついた……」  流は、咄嗟《とっさ》に言葉が出なかった。大上が普通でないのはわかる。だが、そこまで凄《すさ》まじい男とは想像すらしていなかった。 「賢三は、あたしの目の前で母さんの首を、切り落とした……そのとき、あたしの中でなにかが弾《はじ》けた」  ぎゅっと、肩を掴《つか》む手に力が入る。 「……あたしは初めて獣化してあいつに襲いかかり、それから、逃げた」  恐らく自分がなにをしているのかもわからないうちに駆け出したのだろうと、流は思う。八歳の女の子が、母親の死を目の当たりにしたのだ。それも、父親の手にかかって、首を切り落とされるところを。  ——正気を保てるわけがない。だからこそ、獣化できたのだろう。 「あたしはレイに拾われてから、組織のために働いたわ。レイや一族の恩に、報いたかったから。結局、獣化できること、少し再生速度が速いぐらいで、人狼としての能力は低かったんだけど」  少し自嘲《じちょう》ぎみの笑みがこぼれる。 「そんなあたしでも、レイは優しくしてくれた……」  レイのことを思い出したためか、少し手が震える。 「でも、あいつが組織に入ってきて、すべてはめちゃくちゃになったわ……」 「大上が、か?」  流の背中で、恭子がうなずく気配がする。 「あたしたち人狼一族の所属する組織は、ずっと得体の知れない計画を進めていた。そのために犬神を操れる賢三を、組織がスカウトしたの」  ぎりっと、奥歯が鳴る。 「あたしたちの一族は、あの男の実験材料として売られた……そしてその事実に気づき、動いたのはレイだけだった」  流の肩にあるリュック。それを、恭子はじっと見つめた。 「あたしとレイは、賢三の計画を潰《つぶ》すために動いたわ……でも、悟られた。月のない日に襲われて、まともに変身できないあたしたちはなすすべもなく捕まった……」  そこで一旦《いったん》、言葉を切る。 「ううん、たとえ満月だって、勝てたかどうかわからない……犬神筋の人間は、それぐらいの力を持ってるの……」  人狼が満月の夜に最強となり、新月に力を失うのは有名だ。しかしそれでも、人間に負けるほど弱くはない。 「犬神と一体になり、犬神を操る存在となる者。犬神筋は、犬神に憑依《ひようい》されて初めて覚醒《かくせい》できるらしい」 「じゃあ犬神計画ってのは、素質のある者を捜すのが目的なのか?」 「それもあるでしょうね。だけど、本当の目的はもっと別のところにある……」 「本当の、目的?」  流の問いかけに、恭子の表情が嫌悪に曇る。 「レイと、あたしから作り出した四つの蠱毒《こどく》……これを東京の中心部四箇所に埋めることで、犬神は東京すべてに広がることになる」 「それじゃ……」 「そう」  流の喉《のど》が、ごくりと鳴る。 「四つの蠱毒が生み出す膨大な数の犬神によって、東京は大上の支配下に置かれることになるでしょうね」 「なんだって!?」  それは、日本という国そのものが乗っ取られるということだ。 「犬神筋の再興、そしてかつて豪族たちを支配したように、自らが国家すべてを統《す》べる存在となること……それが、あいつの悲願だった」  そのためにレイは殺され、恭子は追われている。犬神筋の復活のために、そして大上の野望のために、人狼《じんろう》たちが狩られている……。 「一族は、大上の計画の、真の目的を知らない……自分たちが、実験材料として飼われているということも」  恭子が震えているのが、流にも伝わってくる。怒りや恨み、そんな単純な感情では言い表せない想《おも》いが、彼女の中を駆け巡っているのだろう。 「あいつを倒さないと、また誰か一族の者が犠牲になる……そんなの、我慢できない」  恭子が、流の肩を強く掴《つか》む。その手も、少し震えていた。 「犬神っていう蠱毒、どうやって作ると思う?」  その問いに、流は首を横に振る。 「簡単な呪物《じゅぶつ》なら、犬でいいわ。生きたまま首まで土に埋め、飢え死にする寸前まで放っておくの。そして死ぬ間際に切り落とした首が、蠱毒となる……」  恭子はそこで、少し言葉を切る。 「……レイは、あたしの目の前で首を切り落とされた……」  ぎりっと、流の肩を掴む手に力が入る。 「レイが最期に残してくれた血しぶきをすすって、あたしは縛《いまし》めを解いて逃げ出したわ」  恭子は流の背中に、ぎゅっとしがみつく。 「レイ……」  悔しいのだろう。できるものなら、声を上げて泣きたいに違いない。だが恭子は黙って、ただ流の背中に顔を埋めていた。  しばらくして、恭子は身を起こす。そして、「降ろして」と告げる。  流は黙って、恭子の言葉に従った。しかし恭子がまだ本調子でないことは、明らかだ。その様子を見て、流は仲間を呼ぶことを決断した。自分一人では、やはり危険すぎる。 「どうしたの?」  公衆電話に向かう流を見て、恭子が不安げな声を出す。 「仲間を呼ぼうと思うんだけど、だめかい?」  流はポケットからテレホンカードを出しながら、言った。道沿いのタバコ屋の外にある、公衆電話。そこから彼の所属するネットワーク、 <うさぎの穴> に連絡するつもりなのだ。 「仲間……?」 「そうさ。きみがどんな組織にいたかは知らないけど、俺《おれ》たちにも妖怪《ようかい》同士のネットワークがある。BAR <うさぎの穴> は、東京じゃちょっとは知られてるんだぜ?」  恭子は流の話に聞き覚えがあるのか、それほど驚いた様子はなかった。 「やっぱり……。あなたが、 <うさぎの穴> の水波流なのね」 「なんだ、俺ってそんなに有名人なのかい?」  苦笑する流に向ける恭子のまなざしは、思いのほか真剣だ。 「あたしのいた組織の、ブラックリストに載ってたわ。確か、正体はゴールドドラゴン」  結果として、驚いたのは流のほうだ。まさか <うさぎの穴> と敵対している組織に、恭子が所属していたとは思わなかったからだ。 「でも、もう関係ないわね……あたしも、いまは組織に追われる身なんだから」  流は無言で、受話器を取る。人間との静かな共存を主張する <うさぎの穴> に敵対する妖怪は、それなりにいる。しかし組織ともなれば、あまり穏やかな話ではない。  想像以上に大きな事件が、背後で動いているのかもしれない。けれど、恭子に対する不信感は少しも湧《わ》いてこなかった。  流は複雑な気分でカードを差し込み、手早く番号を打ち込む。  三回ほど、コール音が続く。それから、受話器を取る音。 〈はぁい、BAR <うさぎの穴> でーす〉  可愛《かわい》らしい声が、元気よく受話器から飛び出す。マスターの娘の、かなただ。 「もしもし、流だけど」 〈流? あんたこんな時間まで、どこほっつき歩いてんのよ!〉  途端に、声が詰問口調になる。 「わりぃ、ちょっと厄介ごとに巻き込まれちまって……」 〈わりぃじゃないわよっ。ちゃんと頼んだもの、受け取ってくれたんでしょうね?〉  一瞬の、沈黙。 「……すまん」 〈すまんって、あんた! いまどこよ!?〉 「ああ、上野の近くなんけど——」 「流!!」  恭子の突然な叫びに、流は咄嗟《とっさ》に振り向く。その瞬間、乾いた連続音が鳴り響いた。 〈流!?〉 「なっ!?」  電話機が吹き飛び、焼け串《ぐし》を突き入れられたような激痛が、流の体を襲う。一瞬、なにが起きたのか理解できなかった。  思わず、がくりと膝《ひざ》をつく。必死に顔を上げると、数人の男が一方から駆け寄ってくるところだった。そして、自分の身になにが起きたのか、理解した。  その手にあるのは、M16A2突撃銃《アサルトライフル》。米陸軍の正式小銃だ。その斉射を、流はその身に受けたのである。 「……そこまで、やるかよっ」  初めから電話機を狙《ねら》っていたのか、流の体にはさほど命中弾はない。それでも常人ならば確実に殺傷できるだけの弾丸をその身に受けていた。 (これは……�銀�か?)  流は肉に突き立ったままの弾丸を掘り出し、顔をしかめる。そうだとすれば、恭子も危ない。いかに人狼《じんろう》といえども、銀の弾丸で傷つけられては再生できないのだから。  妖怪《ようかい》は、人の想《おも》いから生まれる。それだけに弱点とされているものからも、逃れることはできない。銀に弱いのも、月齢で力が変化するのも、人がそう信じるからこそなのだ。  そして忘れられた妖怪は、その存在そのものが消えてゆく。  ——たとえば、犬神筋のように。 「いよいよ、なりふり構わずかよ!?」  電話機は粉々に粉砕され、原形をとどめていない。そして男たちは今度こそ流にとどめをさすべく、銃口を一斉に彼へと向ける。 (こいつは、洒落《しゃれ》にならないぜ)  四、五人から一斉に撃たれれば、かわすのは無理だ。しかもいかに強靭《きょうじん》な肉体を持つ妖怪とて、数十発のライフル弾を受けて無事ではすまない。 「流っ!」  男たちがライフルの引き金を引いた瞬間だった。  恭子は咄嗟《とっさ》に流を突き飛ばし、銃弾の雨から身を守る。 「恭子……無茶するな!」  転がり、辛うじて曲り角を曲がる。しかし男たちが追いすがってくる足音が、すぐに聞こえてきていた。 「大丈夫……銃弾ぐらいで、やられたりしないわ」  数発その身に受けたのか、再び鮮血が流れている。中には、じゅうじゅうと音を立てて焼け焦げている傷跡もあった。 「もう強がりはよそう。ここは俺《おれ》が時間を稼ぐから、おまえは上野公園へ向かえ。これだけなりふり構わない行動に出たってことは、奴《やつ》も相当に焦ってる証拠だ」 「でも……」  心配げな表情を見せる恭子に、流は笑ってみせる。 「それこそ簡単にやられたりしないさ。すぐに追いかけるから、先にいって残りの蠱毒《こどく》を掘り出してやれ。そうすれば、俺たちの勝ちだ」  俺も相当強がっているな——流は心の中で苦笑し、恭子の背中を押した。 「流!」 「心配すんなって!」  振り返らずに答え、流は角を飛び出してきた男たちに激流を浴びせかける。 「蠱毒を嗅《か》ぎ出せるのは、おまえだけなんだ! 急げよ!」  その叫びに、恭子は意を決したように駆け出した。それを横目で見送り、流は態勢を立て直しつつある男たちへ視線を戻す。 「どうにもこうにも、どっかの誰《だれ》かさんに乗せられてるって感じがするのがシャクだけどな」  肩を回し、ごきりと鳴らす。 「でもま、いまは乗せられといてやるよ」  流は小さく笑うと、勢いよく駆け出した。    8 死闘  不忍《しのばず》池は、上野公園にある大きな池だ。この池の中央に、弁天堂はある。  細い土手を通り、ボートハウスを越える。もう弁天堂は目の前だ。 「レイ……」  はっきりと、恭子はレイの存在を感じていた。蠱毒は人通りの多いところに埋め、人々に踏まれることで怨念《おんねん》を増し、いっそう強い力を放つようになる。  観光地であり、デートスポットでもある上野公園だけに、日中の人通りは多い。レイが塵毒となって埋められたのはわずかに昨日のことだが、すでに相当強力な力を放っていた。  蠱毒《こどく》『犬神』は、犬の首を使うことからそう呼ばれている。だが犬よりも狼《おおかみ》のほうが強力だとされていた。ましてや人狼《じんろう》の首だ。それだけでも、相当に強い蠱毒となっている。  恭子は昼間とは打って変わってひっそりとしている上野公園の、弁天堂に足を踏み入れた。  確実に、レイの気配は強くなっている。  しかしそこに、もう一つ雑音のような気配が混じっていた。  それは、彼女が恨み、憎み続けてきた気配。 「鬼ごっこは終わりだ、恭子。そろそろ決着をつけようじゃないか」  革靴が石畳を打つ乾いた音。  ぼんやりとした月明かりの下に、スーツ姿の男が現われる。 「大上、賢三」  血を吐くように、恭子はその名を告げる。それに答えるように、大上はにたりと笑った。 「そうやすやすと、この蠱毒を渡すわけにはいかんのでな。そしておまえを逃がすわけにも、いかん」  ぱちりと指を鳴らすと、アサルトライフルを構えた男たちが六、七人、姿を現わした。 「組織の連中に対する力関係というものもある。おまえごときにあまり手こずっているようでは、奴《やつ》ら獣どもを下して頂点に立つなど、夢の話だからな」 「おまえの夢の話など、聞きたくもない!」  怒りに燃える恭子のまなざしを前にしても、大上は余裕の表情を崩さない。 「そう吠《ほ》えなくとも、おまえも立派な蠱毒として役立ててやるよ……ありがたく思うことだ」  大上は尊大にそう告げると、腕を振り上げた。その瞬間、回りの男たちが銃を構える。 「おまえは、必ずあたしの手で息の根を止めてやるッ!」  恭子は叫び、男たちが銃を撃つよりも早く駆け出した。その一瞬で、彼女の上半身は狼と化している。 「仕留めろ」  大上の冷ややかな号令と共に、恭子目掛けて凶弾が降りそそぐ。殺してしまっては意味がないため、弾丸のほとんどは通常弾だ。しかしその中に、数発の銀の弾が混じっていた。適度に痛めつけるための、配慮なのだろう。  しかし恭子も凄《すさ》まじい速度で弾丸を避け、一人、二人と犬神に取り憑《つ》かれた男たちを倒してゆく。だがしかし、さすがに何十、何百と降りそそぐ弾丸すべてかわし続けるのは不可能だった。  肩や腕、足などを撃ち抜かれ、血が溢《あふ》れている。しかもそのうちの数発は、致命的な�銀�製の弾丸だった。 「どうした、恭子? 動きが鈍っているぞ」  雨あられと降りそそぐ銃弾をかいくぐり、恭子はまた一人の男を打ち倒す。だがすでに、恭子は相当な数の弾をその身に受けている。 「大上っ」  犬神に憑依《ひょうい》され、操られている人々を恭子は容赦なく薙《な》ぎ倒す。その人垣の向こう側にいる大上賢三まで到達するには、そしてそのさらに背後にある蠱毒を奪うには、そうするしかないからだ。  犬憑《いぬづ》きを落とす方法もある。しかしこうも激しい銃撃にさらされては、とても精神を集中している余裕はなかった。 「もう限界か?」  いやらしい笑みを浮かべ、大上があざける。銃を持った犬憑きを、もう五人は倒した。残る犬憑きは、あと二人。 「くあああああっ!」  叫び、恭子は跳躍する。犬憑きの頭上を越え、大上へ直接殴りかかったのだ。  再び銃が乱射され、恭子の体をかすめる。何発かが足を撃ち抜いたが、跳躍した体は決してバランスを崩すことはなかった。 「いい攻撃だが……」  恭子はすり抜けざま、犬憑きを一人|蹴《け》り倒している。そしてその勢いのまま、大上へと飛びかかる。  しかし大上は余裕の笑みを浮かべたまま、恭子必殺の鉤爪《かぎづめ》を首一つそらすことで避けた。着地しようとする恭子の腹へ、大上の強烈な膝蹴《ひざげ》りが入る。 「ぎゃうっ」 「……まだまだ未熟だ」  恭子の体が、ずるりと大上の膝から落ちる。常人なら、確実に内臓を破られるほどの一撃。  それは、人狼《じんろう》である恭子ですら、動けなくなるほどの衝撃があった。  月光が雲に陰り、苦痛も合わさって人狼の姿が維持できなくなる。大上は人の姿に戻った恭子を見下ろし、低く笑う。 「これまでだな、恭子」  地に落ちた恭子の頭を踏みつけ、大上は静かに告げる。 「満月にしか力を発揮できん下等な貴様らを、われら犬神筋のために役立ててやろうというのだ。誇りに思うがいい」  大上は恭子の首を掴《つか》むと、片腕で彼女の長身を吊《つ》るし上げた。恭子はもう反撃の力も失せたのか、ぐったりとしている。 「今度は逃げられんよう、両手両足をもいでから、埋めてくれる」  そう告げ、大上はにたりと笑った。左の眼窩《がんか》に埋まる潰れた眼球が、不気味に歪《ゆが》む。 「くっ!」  恭子は最後の力を振り絞り、大上を鉤爪で薙《な》ぐ。しかしその一撃も、あっさりと左腕で掴《つか》まれた。 「やはり、もいだほうがいいようだなぁ!」  大上は哄笑《こうしょう》すると、掴んだ恭子の右腕を引いた。掴まれている手首からじわりと血が滲《にじ》み、関節が軋《きし》む。  恭子は必死にもがいたが、大上の腕はまるで万力のようにびくともしない。それどころか、指が肉に喰い込んでいるような痛みすらある。 「痛いか、苦しいか? くかかかッ、泣き叫んでみろッ!」 「うああぁっ」  ごきりと、肩が絶望的な音を立てた。しかしそれでも、大上は力を緩めない。 「あぐっ、うあっ」  どうしようもなく、悲鳴が洩《も》れる。そのたびに大上が悦に浸るのを見やり、恭子は痛みよりも悔しさに涙が溢《あふ》れた。 「もっといい声で鳴けッ。そしてわたしを楽しませろッ」  大上は、一気に恭子の腕を引いた。その瞬間肩の靭帯《じんたい》が弾《はじ》け、筋肉の引きちぎられるのを感じた。 「うあっ、うああああああああああああっ!」  ぶちぶちと音をたて、恭子の腕がもぎとられる。血が溢れ、べっとりと大上の顔を濡《ぬ》らした。 「かかかかかかかかかッ! いい声だぞッ、恭子ッ!」  引きちぎった腕もろとも恭子を投げ捨て、大上はのたうつ彼女を踏みつける。 「次は、その足でももいでやろうか!」  大上は恭子の背中を踏み、足首を掴む。  恭子は、まるで無力な自分に、泣いた。悔しくて、涙が止まらなかった。  いっそこのまま舌を噛んで死のうかとも、思う。そうすれば、少なくとも自分を蠱毒《こどく》には使えない。大上賢三に利用されるぐらいならば——そう考えた瞬間だった。 「ぐわっ!?」  いきなり大上が、吹き飛ばされる。 「恭子、待たせたな」 「流!?」  その声が流であると知って、恭子は思わず声をあげていた。大上も即座に立ち上がり、現れた新手を見やる。 「ずいぶんとやってくれたじゃないか……大上」  ごきっという音とともに、最後に残っていた犬憑《いぬづ》きが倒れる。  そしてそこに姿を現わしたのは、熱気に全身から湯気をあげている、水波流だった。 「騎兵隊気取りか、水波流!」  楽しみを途中で邪魔された大上は、怒りの形相で流を睨《にら》む。しかしそれを受ける流の双眸《そうぼう》も、ぎらぎらとした怒りに燃えていた。 「いままでの借り、まとめて返させてもらうぜ」  流はリュックを投げ捨て、ゆっくりと歩を進める。 「いきがるなよ、小僧ッ。少々水芸ができるぐらいで、わたしに勝てるつもりか?」 「他力本願なくせに、偉そうな口をきくもんじゃないぜ……大上!」  流は次の瞬間、猛然とダッシュした。一気に間合いがなくなり、引き絞った全身の筋肉を解放して、流の拳《こぶし》が唸《うな》る。 「こいつ……ツ」  完全に意表をつかれる形となり、流の拳が大上の腹を打つ。まともにそれを受けた大上はよろけ、あとずさった。辛うじて踏みとどまり、第二撃に備えて構えをとる。 「恭子……動けるか?」  だが流は深追いをせず、恭子を守るように立ちはだかる。 「流……」  恭子は流の言葉に答えるように身を起こし、よろよろと立ち上がった。しかし肩からの出血は止まるわけもなく、彼女の体を濡《ぬ》らし続けている。 「死にたくなければ、レイを掘り出せ。こいつは、俺がなんとかする」  恭子は無言でうなずくと、ゆっくりと蠱毒《こどく》の埋まっている場所へと向かう。大上はそれを止めようにも、流を前に動けないでいた。 「犬神を解放するまでもない……俺が、片付けてやる」  じゃりっと一歩を踏み出す流を見て、意外にも大上はにやりと笑った。構えも、少し崩れたものになる。 「おまえたちの目論見どおり、ここに蠱毒は埋めてある。恭子ならば、嗅覚《きゅうかく》だけで正確に埋めてある場所も探れるだろう」  そう告げる大上の態度には、余裕すら感じられる。 「だが蠱毒に近いほど、わたしの力は増すということを……思い知らせてやる」  大上は左目に指を突っ込むと、潰《つぶ》れた恭子の眼球を取り出す。それを無造作に指で潰すと、口の中へと放り込んだ。 「さあ、悪夢を見せてやろう」  大上は眼球を噛《か》み砕き、ごくりと飲み込んだ。それと時を同じくして、大上の全身から妖気《ようき》が流れ出す。 「ほざいてろよッ!」  流は駆け出し、鋭い右の一撃を放つ。大上はそれを右手で受け流し、そのまま流の勢いを殺さずに強烈な肘打《ひじう》ちを脇腹《わきばら》に叩《たた》き込む。そして動きが止まったところへ、左の突きが刺さる。 「のろい」 「っぐぁ」  流は吹き飛び、たたらを踏んだ。受けからの攻撃が、まったく無駄なく連携してくる。その動きは、流をしても見切れない。 (格闘だけでも、相当な達人ってことかよ……)  打たれた箇所を押さえ、流はぎょっとした。  血が、ぼたぼたと流れ出していたからだ。 「これは……」  まるでなにか獣にでも咬《か》みちぎられたかのように、打たれた場所がえぐりとられている。そこから、鮮血が激しく溢《あふ》れ出していた。 「言っただろう? ここではわたしの力は増している、と」  そう告げる大上の肘《ひじ》には、牙《きば》を剥《む》いた犬の頭が生えていた。 「かわいい小犬たちは、腹をすかせているんでね。さあ、次はどこを喰らってやろう……」  ゆっくりと流を差した指も、犬。膝《ひざ》も、肩も、爪先《つまさき》も、犬の頭だった。 「この、化け物野郎……」 「きみに言われたくないもんだな、水波流。きみだって似たようなものじゃないか」  低く笑う大上の顔も、犬じみて見えた。しかし服は、どこも破れていない。肉体そのものが変化しているわけではないのだろう。 「一緒にすんなよ、ワン公」  流は吐き捨てるように告げると、ブルゾンを脱ぎ捨てた。そして精神を集中し、本来の姿を思い浮べる。 「蠱毒《こどく》みたいな他人の怨念《おんねん》に頼ってる奴《やつ》に、俺《おれ》が負けるとでも思ってるのかよ……」  人の姿に隠された大きな力が、全身を駆け巡る。  体が膨張し、シャツが裂け、ズボンが弾《はじ》ける。  そして、一瞬の閃光《せんこう》。  次の瞬間そこに現われたのは、全長五メートルにもなろうかという黄金色の龍《りゅう》だった。 「ここからが、本番だ!」  叫び、流は紫色の稲妻を吐いた。その苛烈《かれつ》な一撃は、真っ直ぐに大上へと延びる。  流の放った稲妻は、過たず敵を撃つ。しかし大上は左手でそれを受け、稲妻をおかしな角度にねじ曲げた。 「やりやがるっ」  雷撃は効果が薄いと考え、流は一気に間合いを詰めて鉤爪《かぎづめ》と牙を振るった。鋭い鉤爪が空を斬《き》り、人間をひと飲みにできそうな牙が大上を襲う。しかし大上は軽快な歩法で間合いを微妙に広げ、そのすべてを紙一重でかわして見せる。 「さすがに、いい攻めだ」  牙がかすめたのか、大上の頬《ほお》から血がしぶく。見えない左からの攻撃を、避け損ねたのだろう。しかし、表情に焦りはない。 「余裕こいてる暇があるのかよっ! 次は首をいただくぜ!」  叫び、流は死角を突くように左へ回る。 「だが、なめてもらっては困るな……」  死角を取ったと思った瞬間、流は大上の姿を見失っていた。思わず驚いて、身を引く。  そしてそれが、流最大の失敗だった。 「未熟だぞ、水波流!」  大上の声が真下から聞こえたことに、流はぎょっとした。彼の目をもってしても捉《とら》えられない速度で、大上は流の真下に踏み込んでいたのだ。 「大上っ!」  咄嗟《とっさ》に鉤爪《かぎづめ》を振るうが、間に合わない。大上の放つ無数の犬神の顎《あご》が、流の体を襲う。 「くあっ、こいつ!」  必死に身をよじってかわすが、大上の手数はあまりに多い。避け切れない牙が流の黄金色の鱗《うろこ》を剥《は》がし、傷つける。 「 <うさぎの穴> でも屈指の強さと聞いていたが、まだまだ未熟なようだなッ」 「くそぉっ」  流は必死に鉤爪を振るい、稲妻を放つが、ことごとくが弾《はじ》かれ、かわされた。犬神を憑依《ひょうい》させた大上の姿は、ぼやけ、微妙にずれて見える。そして大上の繰り出す攻撃は、異様なまでに間合いが広かった。 「きみとの戦いはなかなかスリルがあって楽しいが……わたしも戦いに夢中になって、蠱毒《こどく》を奪われては話にならんからな。このあたりで、終わりにさせてもらおうか」  ほんの数秒の間に、流は全身の鱗をめくられたのではないかというほどぼろぼろにされていた。一方の大上には、傷らしい傷もない。 「へっ、そう簡単にはやられないぜ……」  地に這《は》うようにしながらも、流はその頭を上げた。ちらりと、大上の後ろを見やる。  必死に、恭子が地面を掘っている。だが蠱毒を埋めたのはよほど深いのか、まだレイの頭蓋骨《ずがいこつ》を見つけた様子はない。 「いくらなんでも、すぐに掘り出せる深さには埋めていないよ。ずいぶんと手こずらせてくれたが、これで最後だ」  大上はにたりと笑うと、腕を流にかざす。その肘《ひじ》から先は、巨大な犬の顎となっていた。 (恭子……まだか)  大上の腕から伸びた犬神が、流の首を掴《つか》む。ぎしりと喉《のど》が軋《きし》み、息が止まる。 「あぐ……っ」 「しかしきみにとどめを刺す前に、不出来な娘の始末をしなくてはな」  片腕で必死に穴を掘る恭子を振り返り、大上はつぶやく。しかし恭子はまだ蠱毒を掘り当てられないのか、一心不乱に穴を掘り続けている。 「約束どおり、両方の手足をもいでくれる」  大上は恭子が掘り起こしている穴を睨《にら》み、念じた。その瞬間、なにか靄《もや》のようなものが吹き出してくる。 「大上、やめろっ!」  流は必死に叫ぶが、首を押さえられてはもがくことしかできない。  穴から吹き出した靄は、徐々に巨大な犬の姿を取り始めていた。恭子は驚いたようにその靄を見つめ、立ち尽くしている。 「おとなしく見ていろ、水波流。大神筋が操る犬神の力を、目の当たりにできるのだぞ」  大上はにたりと笑うと、指を鳴らした。その瞬間靄のような姿の犬神は恭子の体を捕え、縛りつける。 「さあ、犬神たちよ。その娘の手足を、もぎとるがいい。ただし、ゆっくりと、じっくりとな」  大上の言葉に応えるように、方々からさらに小さな犬神たちが集まってくる。それは先ほど倒した犬憑《いぬづ》きたちや、流のリュックの中からも、集まってきていた。 「うあ……っ」  恭子の体が、大の字になって空中に浮かび上がる。手足が、犬神たちによって引っ張られているのだ。  びしびしと、恭子の体が乱む。表情が、苦悶《くもん》に歪《ゆが》む。 「恭子……」  流は必死に、腕を伸ばす。 「恭ォォォォ子ォォォォォッ!」  流の叫びが、あたりに響きわたる。その叫びが形となったのか、一筋の光が流の中から飛び出した。 「さあ、引きちぎれ!」  流の叫びすら楽しむように、大上は頬《ほお》を歪めて命じる。次の瞬間、恭子の体がびくんと跳ねた。  だが、それ以上の変化は起こらない。それどころか、恭子はゆっくりと地面に降り立った。 「……なんだ?」  その様子を見て、大上の表情が歪む。 「どうした……引きちぎれ!」  叫んでも、犬神たちは言うことをきかない。ただ、恭子のまわりに留まっているだけだ。 「なぜだ、なぜ言うことを聞かんッ」  大上の腕から、流がどさりと落ちる。腕から犬神が消え、流の体重を支えきれなくなったのだ。 「どういうことだ、これは!?」  大上は初めて、焦りを見せていた。いや、それは恐怖と呼ぶものなのかもしれない。 「大上賢三……」  恭子は全身を自らの鮮血で染め、頼りなげに立ち尽くしている。しかしそこにある眼光に、身にまとう力に、大上は恐怖を隠しきれなかった。 「……母の、レイの仇《かたき》、討たせてもらうわ」  ゆらりと、恭子は右腕をあげる。  引きちぎられたはずの、右腕を。 「恭子……おまえ、その腕は……ッ」  確かに、恭子の右腕は大上自らが引きちぎった。現に、彼の足許《あしもと》にちぎれた右腕が転がっている。  なのに、恭子の肩から先には、右腕があった。  いや、腕ではない。  それは金色に輝く、狼《おおかみ》。 「ま、まさか、犬神の血を……!?」 「大上賢三……あたしは犬神の中に取り込まれて、わかったわ。あたしの中にも、犬神筋の血が流れていることが……そして犬神たちが、あたしのほうを好んでいるということも!」  恭子が狼と化した腕をかざすと、大上は怯《おび》えたようにあとずさった。だが再び鎌首《かまくび》をもたげた流が、その行く手を阻む。 「あたしの中へ来て、レイ」  恭子が静かにそう告げると、彼女の回りを漂っていた犬神たちが体の中へと消えてゆく。さらには大上の体からも、上野中からも、東京中からも、次々と集い、恭子の中へと消えていった。  そして右腕に輝く狼の姿が、いっそうまばゆく光を放つ。 「そんな……そんなことが……」  流の目の前で、大上の体はみるみるしぼんでゆく。まだ三十代に見えた容姿が、どんどん老けてゆく。 「おまえに残された犬神では、人狼《じんろう》が——レイが生み出した犬神には勝てない。人狼一族の怨念《おんねん》を、その身で味わえ!」  恭子の腕に集まった犬神たちが、一斉に大上の体へと喰らいついてゆく。いままで支配されていた恨み、触媒として非業の最期を遂げた恨み、辺りに満ちる恨み。そういったすべての怨念を背負い、犬神たちは大上の体へと飛び込んでゆく。 「ひひひひひひひひ! 凄《すさ》まじい犬神だ! この輝き、この怨念! 素晴らしいッ!」  狂気に満ちた声で、大上は高らかに笑う。しぼみ、枯れ木のようになった体を揺すり、奇妙なほど甲高い声で大上は笑った。 「犬神筋は、絶えん! 素晴らしいぞ……さすがはわが娘だッ。われら犬神筋は、不滅だッ! ふはッ、ふはッ、ふはははははははは!」  高らかな、大上の哄笑《こうしょう》。しかしそれさえも、即座にかき消された。  小さな鼠《ねすみ》のような姿の犬神が、あっというまに大上を覆い尽くす。それは東京中からも飛来し、次々と数を増してゆく。 「!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!!」  声にならない叫びを、大上は絶叫する。犬神は次々と増え、小山のようになってゆく。  ばりばりという、喰われ、ちぎられ、飲み込まれる音が続く。初めはもぞもぞと轟《うごめ》いていたその小山も、やがてはどさりと音を立てて崩れ、小さくなってゆく。  貪《むさぽ》り喰らう音が、どれほど続いただろうか。満足したかのように、犬神たちはその姿を減じていった。  そして犬神の姿がすべて消え去ったとき、そこには大上が存在した痕跡《こんせき》すら、残ってはいなかった。 「大上賢三、勘違いするな……」  かつて大上の存在した場所を見下ろし、恭子はつぶやく。 「あたしは、誇り高き人狼《じんろう》だ」    9 そして、狼は放たれた 「やれやれ、ようやく終わったな」 「ええ、終わったわ……」  人間の姿となった流は、疲れ果てて座り込んでいた。それを見下ろすように、恭子も夜風に長い茶色の髪をなびかせている。  流も恭子も、満身|創痍《そうい》だ。驚くべき再生能力を発揮し、恭子のちぎれた腕は繋《つな》がっている。  だが、動かすことはまだ無理だった。流も全身が血で汚れ、斑《まだら》模様になっている。  恭子は流のリュックからレイの頭蓋骨《ずがいこつ》を取り出し、掘り出した残り半分と合せた。すると、レイの頭蓋骨はさらさらと崩れてゆく。  夜風に運ばれ、レイは塵《ちり》へと返る。恭子は満足したような、寂しいような表情でそれを見送った。 「……好きだったんだろ?」  流の問いかけに、恭子は小さくうなずく。 「辛《つら》いな」 「……ううん」  今度は首を横に振り、恭子はにこりと笑う。 「辛くなんかないわ。だって、レイは約束通り、あたしを守ってくれたんだもの」  そう告げ、恭子はそっと自分の胸を押さえる。 「それに、いまはあたしの中にいるから……」  流は初めて見せる恭子の笑顔に、思わずぼうっと見とれてしまった。そんな流を、恭子も見つめかえす。  わずかな沈黙が、二人の間に流れる。それは長いようでもあり、短いようでもあった。 「俺《おれ》といっしょにこないか?  <うさぎの穴> は、いつだって新しい仲間を歓迎するぜ」  流の提案に、恭子は小さく首を横に振る。 「その言葉はうれしいわ。でも、あたしには一族と戦うことはできない」  少し寂しそうに、恭子は流を見下ろす。 「……あたしは、一族のもとに帰る」 「! でも、そんなことをしたら……っ」  慌てて立ち上がる流を、恭子は制止する。 「組織には帰らないわ。必ず一族を説得して、組織から抜けさせてみせる。レイも、そう望んでいるわ」  それがとてつもなく難しいことは、本人が一番よくわかっているだろう。しかし彼女の決意に、もはや流の割り込む隙《すき》はなかった。 「流」  恭子はしゃがみこむと、流に顔を近づける。 「恭子……」  二人の顔が、お互いの瞳《ひとみ》しか見えないほど接近する。恭子は流の肩に車を置き、流は恭子の腰に手を回した。 「ありがとう」  恭子は囁《ささや》くようにつぶやき、二人の影が重なり合う。けれど、恭子の唇は流の首筋に触れていた。  首筋の傷に、優しく口づけする。そして流が抱きしめようと力を入れたとき、恭子はするりと腕から逃れていた。 「きょう……」  流が彼女に声をかけようとしたとき、恭子は一気に跳躍した。  風が鳴り、雲が晴れる。明るい月光が、恭子を照し出す。 「この借りはかならず返すわ、流」  最後にそう告げると、再び恭子は跳躍する。その姿は月夜のかなたへと、消えていった。 「やれやれ……」  流は首筋を押さえ、傷口があったあたりを撫《な》でる。 「完璧《かんぺき》に、フラレちまったなぁ」  恭子が跳び去った月夜を見上げ、流はぼりぼりと頭を掻《か》く。 「レイさんよ。やっぱり俺《おれ》は、あんたにしてやられたみたいだな」  初めに包みに触れたときの、感情の奔流。叫びと共に飛び出した、光。それがなんだったのか、流はこのとき改めて理解した。  ふとあたりを見渡せば、駆け寄ってくる人影が見える。流の名を呼ぶ声も聞こえた。 「ちぇっ、来るのが遅いよ」  流の名を呼んでいるのは、かなたのようだ。おそらく、 <うさぎの穴> の仲間たちがようやく駆けつけてきてくれたのだろう。 「でもま、いいか。カッコ悪いところ、見せずにすんだしな」  恭子が跳び去った方角を見やり、つぶやく。 「だけど、次のチャンスは逃さないぜ。犬神になっちまった男なんかには、負けやしないさ」  本気で惚《ほ》れちまったのかな——ふとそう考え、流は苦笑した。 [#改ページ] [#ここから5字下げ] Take-2————————  簡単に復讐《ふくしゅう》といっても、できる場合とできない場合があります。  一番わかりやすい理由は、相手が強大すぎる場合。  そして、自分に復讐を実行するだけの力がない場合です。  いくら復讐したいと思っても、ヤクザの親分や悪徳政治家、祖先の仇《かたき》である外国なんかには、普通復讐なんてできるもんじゃありません。  それに相手がそこまで強大じゃなくても、反撃を怖がっているようじゃあ復讐なんて不可能です。結局、そんなときは泣寝入りするしかないんですね。  でも、まだ諦《あきら》めるには早いでしょう。方法は、いろいろあるのですから。  いかに非力で、いかに根性なしで、どれほど反撃が怖くても、復讐なんてものはやりかた次第でどうにでもなるもんです。  考えてもみてください。復讐といっても、なにも直接自分が手を下す必要はないわけです。もっとも消極的な方法としては、神頼みや、丑《うし》の刻《こく》参りなんかがありますね。  そしてもっとも積極的な方法は、その道の専門家に頼むことです。  直接手を下す快感は味わえませんが、これはかなり確実な方法です。多くの代価を要求されるのが普通ではありますが、傷ついた尊厳を取り戻すためならは、それぐらいは安いもの。  それに間接的とはいえ、あなたの想いは遂げられるのです。これほど喜ばしいことはないじゃありませんか。  え? でもやっぱりその代価を支払うのが怖い?  困りましたね。それじゃあやっぱり神頼みぐらいが関の山ってところでしょうか。  それにね、この世の中にはまだまだ科学で解明できない力も、意外とたくさんあるものです。案外そんな願いや想い、誰かに伝わっているかもしれませんよ。  それもとびきり腕のいい、専門家のところにね。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 第二話  暗き激怒の炎  山本弘   1.落ちる女   2.不満足のデート   3.奇妙な焼死体   4.大都会の隠れ家   5.逃亡と追跡   6.邪悪のバイカレ   7.誘拐   8.フューリーの怒り   9.恐怖は終わらない [#改ページ]    1 落ちる女  唯樹《ゆいき》は全裸でベランダの手すりを乗り越え、小雨の降る夜空にダイブした。  素足が手すりを蹴《け》ったとたん、彼女の体は地表めがけて急降下しはじめた。それは夢のように非現実的で、恐怖に満ちた体験だった。重力の束縛から解放されて体重が消え失せ、まるで羊水の中に浮かんでいるかのような、恐ろしくも心地好い浮遊感があった。耳許《みみもと》で風がびゅうびゅうと鳴り、長い髪がひるがえるのが感じられた。  自由落下は長く続いたように感じたが、実際はほんの一秒かそこらだったろう。次の瞬間、彼女は密生した葉むらに突っこんでいた。マンションの玄関前の小さな庭園に植えられた樹だ。  身を守る布きれひとつない肌は、尖《とが》った枝に激しくひっかかれ、切り裂かれた。髪の毛が枝にかきむしられた。細い枝をばりばりとへし折り、葉に溜《た》まった雨のしずくを振るい落としながら、彼女はさらに落下していった。  唐突に葉むらを抜けたかと思うと、目の前に芝生に覆われた地表があった。ざーっと葉からこぼれ落ちる雨粒とともに、唯樹は最後の一・五メートルを落下した。激突の瞬間、胸を地面で強打してしまい、何秒間か気が遠くなった。  意識が戻って来たとたん、苦痛が猛然と襲いかかってきた。強打した乳房と膝《ひざ》がずきずきと痛み、苦しさのあまり息もろくにできなかった。唯樹は湿った芝生の上にうずくまり、枝の合間からしたたり落ちるしずくを浴びながら、声もあげられずに身悶《みもだ》えしていた。  肩にも熱い痛みがあった。手をやってみると、血が流れているのに気づいた。落下の途中、樹の枝で傷つけられたらしい。暗くて見えにくかったが、他にも小さなかすり傷が全身にあるようだ。  しかし、樹があったおかげで助かったとも言える。枝にひっかかって落下の勢いが削がれなかったら、たとえ下が芝生でも、マンションの五階から飛び降りて、この程度の負傷では済まなかっただろう。  数十分におよぶ恐怖と屈辱に満ちた暴行の後、男はすっかり勝ち誇り、油断していた。その注意が自分からそれた隙《すき》を狙《ねら》って、ベランダのサッシを開け、衝動的に外に飛び出したのだ。恐怖から逃れるためとはいえ、なぜこんな無謀なことをしたのか、自分でも分からなかった。五階の高さから落ちたら死ぬかもしれない、という可能性は頭に浮かばなかった——いや、心の片隅では、むしろ死を望んでいたのかもしれない。  唯樹は何度も咳《せき》こみながら、どうにか立ち上がった。痛む肩を押さえ、樹の蔭からよろめき出る。二時間前から降り続いている霧のような小雨が、しとしとと肌を濡《ぬ》らした。ふと不安を覚え、振り返って背後のマンションを見上げた。  あいつだ——唯樹は戦慄《せんりつ》した。  明かりのついた五階のベランダから、男が顔を突き出し、こちらを見下ろしていた。五階と言っても、直線距離にすればほんの十数メートルである。顔は逆光になっていて見えにくいが、そのがっしりした特徴的な肩幅は、はっきりと識別できる。  一瞬、男も飛び降りてくるのではないかと予感し、唯樹は恐怖を覚えて立ちすくんだ。無論、普通の人間ならそんな馬鹿なまねはしない。だが、あいつは人間じゃない。人間離れした行動をとっても不思議じゃない……。  幸い、男は飛び降りてくる様子はなく、黙って見下ろしているだけだった。唯樹はひとまず安堵《あんど》した。エレベーターを使うにせよ、階段を駆け降りてくるにせよ、一分かそこらの時間はかかるはずだ。それまでにできるだけ遠くへ逃げなくてはならない。  唯樹は痛む膝をかばいつつ、雨の中をよろめきながら歩き出した。ここは代官山の住宅街である。午前0時を回っているため、路上に通行人の姿はない。誰《だれ》でもいい。人のいるところに行かなくては……。  歩調を速めると、下半身から別の痛みが襲ってきた。男の暴行によって生じた局部の裂傷だ。一歩ごとにナイフでかきむしられるような激痛が走り、濡れたアスファルトに血が点々としたたり落ちる。彼女が通り過ぎた後、雨がそれをゆっくりと洗い流してゆく。  その苦痛は彼女の体だけでなく、心までも深く苛《さいな》んでいた。どんな肉体的苦痛よりも強烈な屈辱、闇《やみ》よりも深い絶望というものがあることを、唯樹は生まれて初めて知った。 「……ちくしょう……ちくしょう」  ふらつく足取りで夜の住宅街をさまよい歩きながら、彼女はすすり泣いていた。 「どうして……どうしてこんな目に……」  街灯に煌々《こうこう》と照らされた街路を、雨に打たれながらよろめき去ってゆく女を見下ろし、男は小さく舌打ちした。とんだ手抜かりだ。これまで数多くのターゲットを屠《ほふ》ってきたが、取り逃がしたのは初めてである。  レイプした後、彼はすぐに金縛りの術をかけ直さなかった。犠牲者が耐えがたい屈辱に苦悶《くもん》し、すすり泣くのを見るのが、楽しみのひとつだったからだ。暴行を受けた直後の犠牲者は、精神的にも肉体的にも打ちのめされ、動く気力すらなくなっているのが普通だ。まさか五階のベランダから飛び降りるとは、夢にも思わなかった。  いくら人間でない彼でも、この高さから飛び降りようとは思わなかった。この距離では妖術《ようじゅつ》も届かない。急いで追いかけることも考えたが、人目につきやすい広い場所で始末するのはためらわれた。  男は冷静に状況を分析した。あせる必要はない。あいつもやましいところのある身だから、警察に助けを求めるとは考えにくい。誰《だれ》かを頼るとしたら、よほど親しい友人ぐらいのものだろう。身元や交友関係を調べれば、行き先の見当はつくはずだ。  そうだ、他の三人に訊《き》けば分かるのではないか。  彼はおもむろに振り返り、室内にいる女たちに目をやった。三人とも全裸で、あられもないポーズで床に横たわっている。ある者は身をよじり、ある者は腕を振り上げ、苦悶の動作の途中でマネキンのように硬直していた。まだ生きている証拠に、その表情には激しい恐怖と絶望の色が浮かんでおり、目からは絶えず涙を流していた。  その周囲には、引き裂かれた衣服の残骸《ざんがい》が散乱している。男はふと思いついて、それを物色しはじめた。ほどなく、一枚の運転免許証を拾い上げる。 「ふふ……」  免許証の顔写真を眺め、男はほくそ笑んだ。逃げた四人目のターゲットの顔だ。  いっしょに車のキー、クレジットカード、数枚の名刺も見つかった。彼は日本に来て日が浅く、漢字は苦手だが、幸いなことに名刺にはローマ字も併記されていた。これで名前も勤務先も判明した。明日になってから足取りを追うのは難しくあるまい。半径二百メートル以内に近づけば、妖術で位置が感知できる。三人を問い詰める手間が省けたというものだ。  男は悠然と衣服を身にまとうと、上着の内ポケットに免許証やキーをねじこんだ。それから犠牲者の衣服の残骸を乱暴に蹴飛《けと》ばし、ひとまとめにした。 「愚か者ども」  彼は無用になった女たちに侮蔑《ぶべつ》の視線を投げかけた。冷たい口調の中にも熱い怒りを含んだ声で、残酷な宣告を下す。 「その罪をあがなうがいい——灼熱《しゃくねつ》の死で」  男はぱちりと指を鳴らした。  一人目の女が、まるで特撮映画の怪獣のように、大きく開いた口から真っ赤な炎を勢いよく噴出した。炎は鼻や耳からも噴き出した。眼球は頭蓋骨《ずがいこつ》の内側からの熱であぶられ、白く変色した。皮膚がちりちりと焼け焦げ、女の顔は黒く変色していった。  もう一度、男は指を鳴らした。  二人目の女の下腹部が大きく膨張したかと思うと、花が開くように内側からめくれ上がった。その裂け目から、真っ赤な炎の柱が垂直に噴出し、天井に向かってそそり立つ。  三度、男は指を鳴らした。  三人目の女の左の乳房が風船のように破裂し、熱い血と焼けた肉片をまき散らした。胸がえぐれて生じた噴火口のような大穴の中では、心臓が激しく燃え、肺の血液がぐつぐつと沸騰していた。  火災警報がけたたましく鳴り響いた。部屋を立ち去る前、男は一度だけ振り返り、哀れな女たちの末路を確認した。犠牲者の生命を瞬時に奪った高温の炎は、近くに積み上げられていた衣服の山にも燃え移り、証拠を確実に焼きつくしつつあった。  それを見届けると、男は廊下に出て、早足で歩み去っていった。    2 不満足なデート 「……ごめんなさい」  摩耶《まや》はフォルクスワーゲンの助手席で身をすくめ、さっきから何度も何度も小声で謝っていた。 「本当にごめんなさい」 「だからさ、もういいって」  ワーゲンのハンドルを握り、流《りゅう》は困った顔をしていた。この車自体、意志を持った妖怪《ようかい》なので、本当はハンドルを操作する必要はないのだが、いちおう握っていないと格好がつかない。  車は高速3号|渋谷《しぶや》線を降り、小雨の降る深夜の渋谷区を南下していた。デートの帰り道で、摩耶を恵比寿《えびす》にあるアパートに送り届ける途中だった。  デートそのものは、そんなに悪いものではなかった。映画を見て、食事をして、充分に楽しんだと言える。だが、流にしてみれば、画竜点晴《がりょうてんせい》を欠くデートだった。何しろ、メインの目的が果たせなかったのだから。 「怒ってます……?」  摩耶はおびえる小犬のような目で、流の横顔を見つめた。傷つきやすい心を持つ少女を安心させようと、流は明るく微笑《ほほえ》み、ひょうきんな口調で答えた。 「怒ってなんかいないよ——ま、残念って言えば残念だけどさ」 「でも……」 「しょうがないよ。まだ心の準備ができてなかったんだろ? こわがってる女の子を、無理にベッドに連れこむわけにいかないしな」 「……ごめんなさい」  摩耶はすっかり恐縮していた。  一見、おとなしく純情そうに見える少女だが、人並にセックスに関する興味はある。だから、プレイボーイで知られる流からデートの誘いを受けた時、ついに自分にも来るべき時が来たかと緊張した。ハンサムで優しい流になら、処女を捧《ささ》げる覚悟はあるつもりだった——そのつもりだったのだが。  ところが、同意のうえでラブホテルに入ったというのに、いざとなって、急に怖気《おじけ》づいてしまったのだ。やむなく、二人は何もせずに出てきてしまった。恥ずかしさもあるが、流の男としての面目を潰《つぶ》してしまったことに、摩耶は罪の意識を感じていた。 「だからさ、謝らなくていいんだって。摩耶ちゃんは何も悪くないよ。どっちかっつーと、悪いのは強引に誘った俺《おれ》の方なんだから」 「でも……」摩椰は恥ずかしさをこらえ、おずおずと訊《たず》ねた。「他の女の人は……違うんでしょ?」 「ん?」 「つまり、他の女の人は、流さんに誘われたら、その……」 「ああ」流は笑った。「他の子は他の子、君は君だろ。無理に他人の基準に合わせることないって。そりゃあ、今の時代、男にほいほい身をまかせる女も多いけどさ、摩耶ちゃんみたいな子だって、いていいじゃないか。違うかい?」 「ええ、でも……」 「何?」 「そんなんじゃないんです。私がためらってる理由は……その……」  摩耶は言葉を詰まらせた。流は急《せ》かさなかった。彼女は十何秒もかかって、どうにか羞恥《しゅうち》心を克服し、言葉の続きを口にすることができた。 「私、不器用なんです。他の女の人みたいに、遊びで済ます自信、ありません。流さんと、その……深い関係になったら、本気になってしまいそうで……」 「結構なことじゃないか」流は陽気に言った。「本気で好きになってくれるなら、俺だって嬉《うれ》しいよ」 「でも、そうなったら私、流さんが他の女の人とつき合うの、許せないと思うんです。流さんを一人占めしたいから……」 「…………」 「私、ストーカーって分かる気がする」摩耶は恥ずかしそうに笑った。「私、たぶん、ストーカーになるタイプの女です」  流はさすがに、背筋がぞくっとするのを覚えた。摩耶ちゃん、かわいい顔して、恐ろしいことを言う……。 「でも、そういうの、流さん、嫌なんでしょ? 一人の女に縛られるのって?」 「う……まあね」流は正直に答えた。 「でも私、流さんを縛ると思うんです。本気になったら。それが嫌なんです。あなたに迷惑をかけるのが」 「うーん……」 「理想を言えば、私だけを見ていて欲しい。私だけを好きになって欲しい——よくある恋愛シミュレーション・ゲームって、あれ、嘘《うそ》ですよね。一人の主人公が、いろんな女の子とつき合って、みんなから愛されるなんて……女の子の立場からしたら、そんなの許せない」 「……まあ、あれは男の願望だからなあ」  流はあまりそうしたゲームに興味はない。あまりにも設定が現実離れしていると感じるからだ。どれほど多くの女の子と同時につき合おうと、誰からも嫉妬《しっと》されず、非難されず、別れ話がこじれることもない——それはまさに男の理想であり、ゲームの中だからこそ存在を許される架空の現象である。  ゲームの最後で、主人公にもてあそばれた末に捨てられる、本命以外の女の子たちの傷心が、具体的に描かれることもない。それを描いてしまうと、あまりにも生臭くなり、後味が悪くなってしまうからだ——だが、現実の恋愛とは、まさにそうした生臭いものなのだ。 「すまないねえ」流は全男性を代表して謝った。「男ってやつは身勝手で」 「いいえ、身勝手なのは私の方です、たぶん」摩耶は窓の外を流れ去る雨の夜景をぼんやりと見つめた。「理想が高すぎるのかな……」  その口調はどこか寂しそうだった。流は慌ててフォローした。 「そんなことはないよ! 摩耶ちゃんはおとなしすぎるんだよ。少しぐらい身勝手になった方がいいんだ。そうでなきゃ、一生、恋人なんてできないぞ」 「だったら……」摩耶はちらっと横目で流を見て、いたずらっぼく微笑《ほほえ》んだ。「私以外の女の子と絶対につき合わないって、誓えます?」 「う……」  自分の言葉が招いた罠《わな》にはまり、流は絶句した。恐ろしい二者択一だ。ノーと答えれば摩耶を傷つける。だが、イエスと答えることもできない。多淫《たいん》を好む龍《りゅう》族の血が、そうさせないのだ。イエスと答えれは、自分にも摩耶にも嘘をつくことになる……。  彼が返答に苦しんでいたその時—— 「うわっ!?」  流が悲鳴をあげた。ヘッドライトが前方に投げかける光の楕円《だえん》の中に、いきなり白い人影が飛び出してきたのだ。流がペダルを踏みこむより早く、ワーゲンが自分で急ブレーキをかけていた。  突然の強烈な逆Gをくらい、摩耶は前に投げ出されそうになった。安全ベルトで胸を締めつけられ、一瞬、息が詰まる。気がつくと、ワーゲンは間一髪で停止していた。  顔を上げた摩耶は、恐怖に息を飲んだ。フロントガラスのすぐ向こうに、ヘッドライトの光を浴びてぼうっと立っていたのは、全裸の若い女だった。肌は幽霊のように蒼白《そうはく》で、雨に濡《ぬ》れた長い髪が裸の上半身にへばりついている。全身傷だらけで、表情には生気が欠けていた。一瞬、本当に幽霊ではないかと錯覚した。 「……助けて……」女はすすり泣きながら、、弱々しくワーゲンのボンネットを叩《たた》いた。「あいつが……あいつが追って来る……!」    3 奇妙な焼死体  渋谷区・宮下公園——  JR渋谷駅のすぐ北、山手線と明治通りにはさまれたごく狭いスペースである。一階は駐車場になっており、その屋上が公園として開放されているのだ。平日はサラリーマンやOLの姿が目立つのだが、今は日曜の夕刻とあって、若者の姿が多い。  そんな中、背広姿の二人の男が並んでベンチに座っている光景は、明らかに周囲から浮いていた。待ち合わせはどこか別の場所にするべきだったか——通り過ぎる若者たちの視線を過剰に意識し、網野《あみの》は少しだけ後悔していた。 「日曜日も仕事とは、警察官も大変だな」  八環《やたまき》がそう言うと、網野は生真面目《きまじめ》なむっつりした表情で答えた。 「しょうがないだろ。犯罪には日曜も祝日もないんだから」  八環はタバコに火をつけ、若い刑事にも一本勧めた。網野は断わった。 「あれだろ? ゆうべ代官山で起きたマンション火災」 「情報が早いな」網野は感心した。「どこから仕入れた? マスコミには当たり障りのないことしか発表してないはずだが」 「被害者の一人を保護してる」 「何!?」  網野は興奮して身を乗り出しかけた。通行人の目に気がつき、慌てて自制する。はやる心を抑え、小声でささやいた。 「どういうことだ?」 「厳密に言うと、被害者の一人と思われる若い女性だ」八環は冷静に説明した。「流を知ってるだろ? あいつが昨日、その時刻に近くを車で走ってて、素っ裸でふらふら歩いてる女を見つけた。全身傷だらけで、明らかにレイプされていたそうだ」 「その女性はどこに?」 「秋葉原にある別のネットワークに預けてある。傷を治療できる者がいるんでな」 「どうして救急病院に——いや、それ以前に、なぜそんな重要なことをもっと早く警察に通報しなかった!?」  網野の非難を受け、八環は露骨に不快そうな顔をした。この刑事は妖怪《ようかい》とのつき合いがまだ浅い。この世界のルールをよく理解していないのだ。 「いいか」八環は噛《か》んで含めるように説明した。「第一に、普通の病院に連れて行ったら、流が犯人扱いされる危険があった。俺《おれ》たちはなるべく世間の目を惹《ひ》きたくないんだ。下手《へた》に刑事事件に関わって、身元を詳しく調べられるとまずい。分かるだろ?」 「……ああ」 「第二に、その女の口走る言葉が異常だった。これがただのレイプ事件じゃなく、俺たちの同類がからんでるとしたら、普通の病院に入れるのはかえって危険だ——と、流は判断したわけだ。案の定、今朝になって、代官山で起きた不審な火事のことをニュースでやっていた……」  そこまで言ってから、八環は煙を吐き出し、ふっと笑った。 「流はあんたと同じく、若くておっちょこちょいだが、今回ばかりは正しい判断だったみたいだな」 「『あんたと同じく』は余計だ」  網野はぶすっとしていた。しぶしぶながら、その説明で納得せざるを得なかった。  この世界には、普通の人間に混じって、人間に化けた大勢の妖怪《ようかい》が暮らしている——その途方もない事実を知っている人間は、ごくわずかである。網野はその数少ない一人だった。以前、連続女性|失綜《しっそう》事件を捜査中、八環たち <うさぎの穴> のメンバーと知り合い、一部の人間と妖怪たちの間に取り交わされた秘密のルールの存在を知ったのだ。  妖怪がらみの事件は妖怪たちが解決しなければならない。網野のような秘密の協力者は、捜査に必要な情報を提供する一方、妖怪の存在が公にならないよう情報を操作し、彼らを迫害や偏見から守ってやる——そうやって両者の関係は保たれてきたのだ。 「で、その女性の名前は?」 「分からん——身分証明になるものは何も持ってなかったし、ひどいショックを受けていて、支離滅裂なことしか言わないらしいんだ」 「どんなことを言ってるんだ?」 「俺は自分で聞いたわけじゃないが、『あいつの姿が変わった』とか、『あいつににらまれると動けなくなる』とか……まあ断片的にそんなことを言ってるそうだ」 「姿が変わった……か」  網野はうなった。確かにこれは妖怪がらみの事件のように思える。だとしたら、生身の警察官に逮捕できる相手ではない。 「念のために、その女性に直接会って、話を聞いてみたいな」 「いいとも。秋葉原のネットに話を通してみよう——それより、そっちの情報は?」 「ああ、そうだ」  網野はブリーフケースを開け、大きな事務用封筒を取り出した。中には数ページの報告書が入っており、写真も添えられている。 「さっき出たばかりの検死官の報告なんだが、どうも腑《ふ》に落ちない」 「というと?」 「出火したのはマンションの五階の部屋だ。消防が駆けつけるのが早かったもんで、全焼はまぬがれた。もちろん室内は真っ黒になってたし、カーテンやベッドカバーなんかの布製品は燃えていたが、家具は原形をとどめていた。ところが——」  網野から手渡された現場写真を目にして、八環は顔をしかめた。黒く焦げた床の上に、焼け残った白い女の脚が二本、無残に横たわっている。太腿《だいたい》部から上は存在せず、少し離れたところに腕と乳房らしきものが見えた。 「それが一人目の犠牲者だ。骨盤は完全に焼失。大腿骨上部、および第三|腰椎《ようつい》以下も焼失。しかし、脚および胸から上はほぼ原形をとどめている。二番目の犠牲者は、頭骨および頸椎《けいつい》が焼失しているが、首から下はほとんど無傷だ。三番目の犠牲者は、肋骨《ろっこつ》の前面と胸骨の大半が焼失……」  網野はため息をつき、説明を中断した。刑事になってもう何年にもなるが、こんなに胸の悪くなる事件はめったにあるものではない。 「ベテランの検死官も首をひねってたよ。骨ってのはそう簡単に灰になるもんじゃない。肉がついてたらなおさらだ。かなりの高熱で時間をかけて焼かないと、こうはならない。犯人は放火する前に、アセチレンバーナーか何かでじっくり死体を焼いたんじゃないかって言ってたな」 「これに似た写真を見たことがあるな」八環は首をひねった。「コンウェイ夫人事件……だったかな?」  それは一九六四年にアメリカのペンシルバニア州で起きた事件である。ある朝、閉めきった寝室の中で、五十一歳のヘレン・コンウェイ夫人が死んでいるのが発見されたのだ。遺体は椅子《いす》に腰かけた状態で、両脚だけをきれいに残して燃えつきていた。かなりの高熱が発生したらしく、椅子もひどく焼け焦げていたが、不思議なことに、周囲の床や家具は少し焦げている程度だった。 「こんな事件が海外でも起きてるのか?」 「ああ。SHC——人体自然発火って呼ばれてる。欧米じゃ昔からポピュラーな現象だ。もっとも、日本じゃあまり実例は聞いたことがないが」 「あんたらの仲間のしわざか?」 「たぶんな。炎を操る力を持つ奴《やつ》はよくいるからな」  網野は眉《まゆ》をひそめた。ぶっそうな話だ、と思う。人間を瞬時に焼死させる能力を持つ危険な犯罪者が、そこらを歩き回っているとは。 「問題は殺しの手口じゃなく、むしろ動機だな」八環は写真から顔を上げた。「犠牲者の身元は?」 「まだ分からない。衣服も所持品もみんなきれいに燃えてたからな。今、全力を挙げて割り出しにかかってる。ひとつだけ確かなのは、犯人は変質者だってことだ」 「なぜ?」 「犠牲者のうち二人は——つまり、下半身が燃え残っていた二人だが、レイプされた形跡があった」  八環はぴくりと眉を吊《つ》り上げた。「ほう?」 「それだけじゃない。先週、横浜でもよく似た事件が起きてるんだ。使われていない倉庫が燃えて、焼け跡から女のものと思われる骨が複数、発見されている」 「連続殺人か……」 「そうだ。犯人はこれから先も、犯行を重ねる可能性がある」若い刑事は正義感に燃え、拳《こぶし》を震わせていた。「阻止しなくちゃならない——何としても!」    4 大都会の隠れ家  バー <うさぎの穴> ——  渋谷区・道玄坂《どうげんざか》の雑居ビルの中にあるこの店は、妖怪《ようかい》たちのたまり場になっている。今回のような事件が起きた場合、いわば捜査本部のような役割も果たす。特殊な結界で隠されていて、普通の人間は出入りできない。 「炎を操るレイプ犯ねえ……」  かなたは神妙な顔で腕組みをしていた。見かけは中学生ぐらいの少女だが、実際の年齢はもう少し高い。 「そんな妖怪、聞いたことがないなあ。生まれたばっかりの奴かな?」 「その可能性は高いわね」  そう答えたのは、未亜子《みあこ》——長い髪の妖艶《ようえん》な女性である。カウンターに寄りかかり、長く白い指でカクテルグラスをもてあそんで、揺れるカクテルを見つめている。  妖怪は人間の想《おも》いから生まれる。人間の想いが限界を超えた時、現実と非現実の壁が破れ、妖怪が誕生するのだ。たとえば、人形や道具のような無生物でも、深い愛情を注がれて使い続けられれば、いつかは生命を得て、妖怪となることがある。  厄介なのは、恐怖や憎悪や恨みといった人間の負の感情から生まれる妖怪だ。闇《やみ》の中に何かがひそんでいるのではないかと妄想する人間の恐怖心。あるいは、誰《だれ》かを殺したい、傷つけたいと願う邪悪な欲望——それらが具象化すると、人間を無慈悲に殺戮《さつりく》する恐ろしい妖怪となるのだ。 「負の感情から誕生した妖怪は、そう簡単にその性質から脱することはできないわ。殺しをやめるようになるまで、何十年、何百年もかかるのが普通よ」  未亜子の言葉には重みがあった。彼女自身、数百年前には、数多くの人間の生血を吸った残忍な妖怪だったのだから。 「もうひとつの可能性として、海の向こうから来た奴《やつ》とも考えられるがな」と八環。 「何か根拠でも?」 「網野の話じゃ、火災が発生した直後、マンションから一台の車が出てくるのが、付近の住民に目撃されてるそうだ。運転者の顔はよく見えなかったが、大柄でがっしりした体格からして白人男性じゃないか、と目撃者は言ってるらしい」 「うーん、でも、がっしりしてるだけで外国人と決めつけるのはねえ……」かなたは納得できない様子で首をひねった。 「分かってる。あくまで可能性だ」 「ところで、火事があったのは誰の部屋だったの?」未亜子が訊《たず》ねた。 「それが妙でね。いちおう『大村一郎』という人物が賃貸契約してることになってるんだが、いつも外出してばかりで、管理人もろくに顔を見たことがないそうなんだ。しかも、大村一郎なる人物はいっこうに姿を現わそうとしない……」 「大村一郎……いかにも偽名っぽいわね」 「ああ。しかも部屋の中には、ベッドや冷蔵庫やテレビはあるのに、衣裳《いしょう》ダンスや衣裳ケースの類がなかったそうだ。普通、どんな無精な男だって、衣裳ケースのひとつぐらいはあるもんだろう? それに、冷蔵庫の中はビールばかりだった——つまり、生活の匂《にお》いが感じられない部屋なんだ」 「住居、というより、秘密のアジトみたいな感じだね」かなたがいかにも子供っぽい感想を口にした。 「ああ。警察も怪しんで、マンションを所有してる不動産会社に問い合わせて、契約内容の確認を急いでるそうだ」 「霧香《きりか》がいてくれたらねえ。現場に行って、事件の様子を透視してもらえるのに」  かなたは残念がった。霧香は原宿で占い師を営む女性で、その正体は鏡の妖怪、雲外鏡である。起きて間もない事件なら、かなりの鮮明さで透視することができるし、時間が経《た》っていても、何らかの手がかりは得られるはずなのだ。あいにくと、今は別の事件に関わり、九州の方に出かけている。 「そうそう、例の被害者の女性は?」とかなた。「そろそろショックから回復して、事情を話せるようになってるかもしれないよ」 「さあ、どうかしらね」未亜子は表情を曇らせた。「体の傷は麟《りん》ちゃんの力で治せても、心に受けた傷までは……一生回復しないことだってあるのよ」  鱗は秋葉原にある別のネットワーク <海賊の名誉> 亭に所属する麒麟《きりん》の娘で、傷を回復させる能力を持っている。流も以前、大|怪我《けが》をした時に厄介になったことがある。近くの病院や <うさぎの穴> ではなく、わざわざ距離の離れた <海賊の名誉> 亭に運びこんだのは、予想される敵の追跡をかわすためもあるが、病院の治療より麟による治療の方が確実だと判断したからだ。 「レイプが精神に与える影響って、そんなに大きいの?」 「そうね。体験した者でなければ実感できないかもしれないわね」 「実感したいとは思わないけどね……」  その時、カウンターの端にある電話が鳴った。年配のマスターが受話器を取る。 「はい、 <うさぎの穴> ……おや、エルナさん、どうかしたのかい?」  八環たちは注意を惹《ひ》かれた。エルナ・ノーススターは <海賊の名誉> 亭の従業員で、羅針盤の妖怪だ。ということは、 <名誉> 亭からの連絡だろうか。  エルナの声を聞くマスターの表情が、微妙に険しくなったのを、八環は見逃さなかった。 「どうした? 何かまずいことでも?」  八環が訊《たず》ねると、マスターは受話器に手を当て、気まずそうにうなずいた。 「……例の女性が逃げたそうだ」 「逃げた!?」 「ああ。ちょっと目を離してる隙《すき》に、エルナさんの服と財布を盗んでね」    5 逃亡と追跡  唯樹の記憶は混乱していた。雨の中をさまよい歩き、ワーゲンに乗ったアベックに救われたことは覚えている。どこかのバーに運びこまれたことも……だが、その後のことは朦朧《もうろう》としていて、状況や前後関係が判然としない。大きな馬のような動物を見た気もするし、興奮して暴れ回ったような記憶もある。それからしばらく眠ってしまったようだ。  目が覚めると、少し正気が戻り、落ちつきを取り戻していた。気がつくと、いつの間にか服を着せられていた。傷はきれいに癒《い》え、痛みもすっかり消えている。いったい、あれから何日ぐらい経《た》ったのだろう——それに、ここはどこなのだろう?  肉体的な危機は去ったが、恐怖が薄れたわけではなかった。自分が大事に保護されているのは理解していたが、見知らぬ場所で見知らぬ者たちに取り囲まれているのは、たまらなく不安な体験だった。男に近寄られるのは恐ろしく、女も恐ろしかった。またレイプされるのではないかという被害妄想が心の中で渦巻き、誰《だれ》かに触られるだけで悲鳴をあげそうになった。  ついに耐えられなくなり、彼女は脱走した。監視の目が離れた隙《すき》に、置き忘れられた誰かの財布をひっつかみ、外に飛び出したのだ。  夜の街を歩き回っているうち、そこが見慣れた秋葉原の裏通りだと気がついた。目についたコンビニに飛びこみ、新聞を見て日付を確認する。あれからたった一日しか経っていないのを知って当惑すると同時に、マンション火災のニュースを読み、他の三人が死んだことを知って愕然《がくぜん》となった。  警察に保護を求めることなどできなかった。自分の身に起きたことをありのままに話しても、とても信じてもらえるとは思えない。それに、そんなことをしたら、自分の犯した罪も白状してしまうことになる……。  家にも帰れなかった。あの部屋に免許証や名刺を置いてきてしまったのを思い出したのだ。あいつはきっと先回りしているに違いない。会社も、友人の家もだめだ。あいつに嗅《か》ぎつけられそうなところには、近づくわけにはいかない。  彼女は夜の街をさまよい歩いた。疲れてはいたが、歩みを止めるわけにいかなかった。立ち止まるとあいつに追いつかれるように思えたからだ。  酔った若者が「へい、彼女!」と声をかけてきた。恐怖にかられ、彼女は慌てて逃げ出した。走りながら泣いていた。自分がみじめで、情けなかった。レイプというものがどれほど悲惨な体験か、身をもって思い知った。  明け方近くになって、小さな児童公園にたどり着いた。その植えこみの合間に段ボールを立てて風よけを作り、猫のようにうずくまって寝た。  目が覚めた時には、太陽が高く昇っていた。そのまばゆい光が夜の恐怖をやわらげ、彼女に落ちつきを取り戻させた。彼女はようやく、頼るべき人間に思い当たった。  荻原《おぎわら》零次《れいじ》——そう、確かそういう名前だった。以前から何度か顔を合わせていたが、長いこと名前は知らなかった。お互いに仇名《あだな》で呼び合い、実社会での身元や生活のことは詮索《せんさく》しないのが、彼らの世界の不文律だからだ。  ところが数週間前、たまたま仕事で訪問した大手証券会社で、見慣れた顔を見かけ、「荻原くん」と呼ばれているのを耳にしたのだ。どの課に所属し、下の名前が何なのか、探り出すのはたやすかった。  もっとも、すぐに零次をどうこうする気は、唯樹にはなかった。万一に備え、何かの切札として利用できるのではないかと、その名を記憶しておくにとどめたのだ。  そう、零次なら信頼できる——唯樹はそう確信した。ライバルとはいえ、ある意味では仲間でもあるのだ。きっと自分の秘密を守ってくれるはずだ。  信じてもらえるかどうかは分からないが。  オフィスに電話がかかってきて、聞き覚えのない女の声で「大事な話があるので一階の喫茶室に来てください」と言われ、零次は不安を覚えた。いったい何者だろう? 彼には恋人と呼べるような女はいないし、仕事関係の人間なら名前を名乗るはずだ。しかも、相手は自分の秘密を知っているような口ぶりだった……。  思い当たるふしはひとつしかない。  金で解決できるだろうか、と零次は思った。裁判|沙汰《ざた》になったりするのはまずい。彼としては、「一流証券会社のエリート社員」「温厚で真面目《まじめ》な人物」という仮面を、ずっとかぶり続けていたいのだ。少しぐらいの金で片がつくなら、そうしたいところだ。  もし相手が法外な金を要求してきたり、世間に真相をぶちまけるなどと馬鹿なことを言い出したら——かわいそうだが、口を封じるのもやむを得まい。  喫茶室で待っていた女は、服がしわだらけでだらしない印象があるが、ボディラインはセクシーだった。顔は疲れ果て、やつれているが、化粧さえしていれば美人の部類だったろう。確かにどこかで見たような顔だ。どこで会ったのだろうか? 「失礼ですが、どちら様でしたか?」  女の正面に座ると、零次は素知らぬ口調で話しかけた。女はすがるような目で彼を見つめている。 「あの——」  女は口を開きかけ——ガラス窓の外に何かを見て、恐怖で硬直した。  零次は不審に思って振り返った。長身で肩幅の広い白人男性が通りに立っていて、ガラス越しに店内を覗《のぞ》きこんでいる。だが、すぐに顔をそむけ、ぶらぶらと歩み去って行った。昼食の時間が近いし、食事のできそうな店を探していただけだろう。  だが、女はなぜか激しく動揺していた。顔面が蒼白《そうはく》で、目を見開き、唇は震えていた。今にも失神しそうに見える。 「あ……あ……あの、すみません! 失礼します!」  そう言うなり、女は立ち上がり、大慌てで店を出て行った。 「……何だ、ありゃあ?」  取り残された零次は、茫然《ぼうぜん》と女の後ろ姿を見送った。  唯樹の狼狽《ろうばい》ぶりが、男には楽しくてしょうがなかった。なぜ自分の居場所が分かったのか、想像もつかないだろう。  タネを明かせばこうである。唯樹が自宅にも友人の家にも現われていないことを知った男は、以前に横浜で別のチームから耳にした荻原零次の名を思い出したのだ。零次なら何か知っているかもしれない。そう思い、彼の勤め先を訪ねたのだが、会社の近くで念のために妖術《ようじゅつ》を使ってみたところ、唯樹の存在を感知したのである。  実に幸運な偶然だったが、唯樹はそうは思わなかっただろう。自分がどこに逃げようと、あの男は居場所を正確に探り当てることができる——そう思いこんだに違いない。  彼は笑った。しばらく誤解させておいてやろう。今すぐ始末する必要はないのだ。何日、あるいは何週間もかけてねちねちと追い回し、恐怖と混乱で自滅してゆくのを眺めるのも一興だ。  そう、たっぷりと罪の償いをさせてやる。    6 邪悪のバイブル  道玄坂二丁目にある小さな居酒屋—— 「まったく、あんたらを信頼してたっていうのに!」  網野はひどく腹を立てていた。もちろん、被害者の女性を逃がしてしまった件を責めているのだ。 「面目ない」八環は素直に謝った。「今、東京一円のネットワークが全力を挙げて探してるところだ。必ず保護する」 「当たり前だ。事件のたった一人の証人だぞ。もし何かあったら……」 「分かってるとも——それより、そっちの捜査に何か進展は?」 「おおありだ」  そう言って、網野は得意げに事務用封筒から文書を取り出した。今度のはかなり分量が多く、三十ページはありそうだ。 「不動産会社を調べてみて、例のマンションの契約を担当したのが、霞森《かすみもり》という社員だと分かった。そいつが二年前、大村一郎なる架空の人物と契約して、あの部屋を貸したわけだ」 「その社員はどこに?」 「月曜になったのに出社していない。土曜の夜に車でどこかに出かけたまま、行方をくらましてる。しかも奴《やつ》の車は、現場付近で目撃された車と車種が一致してる」 「露骨に怪しいな」 「だろ? だからすぐに令状を取って、霞森のアパートを家宅捜索した。そしたら、ワープロのフロッピーが何枚か見つかった。それを読んでみたら、中にとんでもないものが入ってた」  網野は封筒から取り出した文書の束を、八環に手渡した。 「内容をプリントアウトしたものだ。署内部の極秘資料だから、間違ってもマスコミなんかに流さないでくれ。僕の首が飛ぶ」 「分かってるって」  網野の心配性に、八環はいい加減うんざりしていた。事件の真相に関わるような情報を、妖怪《ようかい》たちがマスコミなどに洩《も》らすわけがない。誰よりも真相を隠したいのは彼らなのだから。 「うん?…… <肉欲の黙示録> ?」  冒頭の表題を見て、八環は首をかしげた。ポルノ小説のようなタイトルだが、内容は論文のようだ。ほとんど改行もなしに文章が続き、いかにも文科系の学生が書いたような、哲学的な単語がちりばめられている。  それを読み進むうち、八環の表情が変わってきた。 「まったく、あきれたものね」 「ひでえや、こりゃ」 「信じられない……」  文書を回し読みした未亜子、流、かなたは、口々に感想を洩らした。  彼らが驚きあきれたのも無理はない。難解な語彙《ごい》やレトリックを用い、高尚なように見せかけているが、 <肉欲の黙示録> はまったく愚劣かつ差別的で、吐き気を催すほど冒涜《ぼうとく》的な内容だった。人間社会のモラルや良識を踏みにじり、人間性に唾《つば》を吐きかけていた。  著者は女性を「牝《めす》」と呼び、男よりも下等な動物と断じていた。「牝」には本来、自由意志や権利など存在せず、男性の道具にすぎないのだ、とわめきちらしていた。レイプは自然の本能に従った正常な行為であり、神聖なものである。両性の合意によるセックスこそ不自然であり、異端である——というのが著者の主張だった。  著者はレイプを奨励していた。暴力によって欲望を満たすのは、男性に許された正当な権利である。「牝」たちもそれを心の中で望んでいる。レイプされることによって「牝」たちは喜びを覚え、より美しく輝く。服従の尊さを知る。我々はこの世界を変革するためにも、一匹でも多くの「牝」をレイプし、この真実を知らしめるべきである……。 「ほんとにこれ、人間が書いたものなの?」  かなたがそう言いたくなったのも無理はない。彼らはみな、人間とのつき合いが長く、人間に好意を持っている。人の心の美しさや素晴らしさを知っている。だからこそ、人を守り、愛したいと思うのだ。無論、人間には多くの欠点もあるが、なるべくならそれは見たくなかった。  だが、人間の世界には美しい面だけではなく、醜い面もあることは、誰《だれ》にも否定できない事実である。冷酷な凶悪犯罪、底知れぬほどの愚かさ、金や権力を求める欲望、いわれのない偏見……それらはしばしば、邪悪な妖怪《ようかい》を生み出すきっかけとなる。 「事実は認めなくてはね」未亜子は不快そうに言い放った。「これもまた、人間のひとつの面なのよ」 「嫌だなあ」流は露骨に顔をしかめた。「人間と妖怪がどうこうという以前に、こんな野郎、同じ男として許せないよ」 「おや、流くんがそんなこと言う?」  かなたに白い目で見られ、流はむっとした。 「あのな、こんな奴《やつ》といっしょにしないでくれ! そりゃあ、俺《おれ》はいろんな女の子と寝たけど、無理強いしたことは一度もないぞ。げんにこの前も……」 「摩耶ちゃんのことでしょ? 知ってるよ」 「だったら、分かるだろ。俺はいつでも女の子の意志は尊重してるの!」 「でも、結局のところ、肉体が目的なんでしょ?」 「う……」  身も蓋《ふた》もないことを言われ、流は返す言葉がなかった。 「男ってさ、女を自分に都合良く解釈してない? 勝手に理想化したり、美化したり、かと思えば、この霞森って男みたいに道具扱いしたりさ。本物の女を見ようとせずに、自分が女に対して抱いてるイメージを、勝手に押しつけてるよ。女だって独立した意志を持った存在だってことを、ちょくちょく忘れてんじゃない?」 「それはあるかもね」未亜子もかなたを援護した。「ポルノ小説やポルノ漫画の世界じゃ、レイプされた女性が喜びを感じるって描写がよくあるわ。でも、それは男が勝手に創作したフィクションよ。現実には、被害者がマゾでもないかぎり、そんなことはめったに起こり得ない……」 「そうそう。そういうフィクションを読みすぎると、女に対する歪《ゆが》んだイメージが形成されちゃうかもしれないね」かなたはそう言って、手にした原稿をばしばしと叩《たた》いた。「この野郎みたいにさ」 「そんなこと言ったら、女が男に対して抱いてるイメージだって歪んでないか?」流は懸命に言い返した。「少女漫画やレディース・コミックの中の男なんて、現実には絶対にいないぞ」 「かもね——ただ問題は、そういう歪んだイメージがぶつかり合った時、被害者になるのは圧倒的に女性の方が多いってことだよ」 「まあ、妄想を膨らませるのは自由だが、それは小説やゲームの中だけにとどめておくべきだろうな」八環は顔をしかめた。「現実にやっちまっちゃ、シャレにならん」 「霞森は実際にレイプをやってたと思う?」とかなた。 「網野はそう考えてる。状況から推測すると、奴は渋谷を縄張りにするレイプ・チームのリーダーらしい」 「レイプ・チーム?」 「文字通り、婦女暴行を専門にしている犯罪者集団だ。渋谷や池袋を中心に活動していて、若い女を誘ってどこかに連れこんでは、集団でレイプする。よくある少年非行と違って、チームの構成員の年齢層は高い。たいていは社会人で、昼間は高収入のエリート・サラリーマンだったりするらしい」 「そんな連中がこの渋谷にたむろしてるんですか?」 「ああ。渋谷だけで七〜八チーム、東京全域で二十チーム以上あると言われてる。実態は警察も把握しきれてないらしいが」 「それ、ちょっと多すぎない?」かなたが異議を唱えた。「二十チームが仮に月に二回のペースで女性をレイプしてるとして、ええと……一年で五百件近いレイプ事件が発生してることになっちゃうよ?」  八環は真面目《まじめ》な顔でうなずいた。「それぐらいの数になるんじゃないか」 「まさか! そんなにたくさんの事件が起きてて、どうしてマスコミや警察がもっと騒がないの?」 「表面化する事件は、ほんの氷山の一角だからさ。ほとんどの場合、被害を受けた女性は泣き寝入りしてしまう。別れ際に犯人に脅されて、口止めされるんだ。誰《だれ》かに話したら殺すとか、恥ずかしい写真をばらまくとか言われてな。警察に届け出る勇気のある被害者は少ないし、届け出ても犯人を特定するのは難しい……」 「弱者をなぶりものにしてるわけか」流は怒りのあまり、無意識のうちに拳《こぶし》を握り締めていた。「卑劣きわまる連中だな」 「じゃあ、例のマンションも、その霞森という男が?」と未亜子。 「ああ。アジトとして利用してたんだろう。不動産会社の社員としての立場を利用して、架空の賃貸契約をでっち上げてな。おそらく金はメンバーで出し合ってたんだろう」 「そうなると、分かんないのが、炎を操る妖怪《ようかい》との関係だよね」かなたは腕を組んで考えこんだ。「妖怪がチームの一員だったってわけ? でも、わざわざ被害者を焼き殺す理由がないよね……」  四人がそんなことを話し合っている時、大樹《だいき》が店に入ってきた。小太りで眼鏡をかけた、冴《さ》えない風貌《ふうぼう》の青年だが、記憶力や知識量では誰にも負けないことを誇りにしている。 <うさぎの穴> の情報収集担当だ。 「今しがた、インターネットで <Xヒューマーズ> から返答がありました」  妖怪ネットワークは日本だけではなく、世界各地に存在する。今回の事件は海外から来た妖怪のしわざとも考えられたので、該当する妖怪に心当たりがないか、海外の主要なネットワークに問い合わせのメールを出していたのだ。 <Xヒューマーズ> はニューヨークを拠点とするネットワークである。 「例の炎を操る妖怪ですが、フューリーじゃないかって言ってます」 「フューリーって……確かギリシャ神話の復讐《ふくしゅう》が女神じゃなかったか?」と八環。 「ローマ神話です」大樹は訂正した。「もっとも、古代ローマからずっと生きてるわけじゃなくて、向こうじゃ、復讐のために生まれてくる妖怪をフューリーと総称してるそうなんですけど」 「じゃあ、そいつはアメリカ生まれなのか?」 「ええ。八〇年代後半、ニューヨークでも同じような事件が続発して、 <Xヒューマーズ> も追ってたんだそうです。ところが、偽のパスポートで国外に逃げられてしまって……それ以来、世界各地を転々としながら、復讐を続けてるらしいんです」 「そいつが日本にも来た、というわけか……」 「でも、復讐って誰の復讐だ?」と流。 「フューリーによって復讐の対象はいろいろだよ。この場合はだね……」  大樹の説明を聞いて、一同は愕然《がくぜん》となった。とりわけショックを受けたのは流だった。 「じゃ……じゃあ、俺《おれ》の拾った、あの被害者の女性は……?」 「そういうことになるな」  気まずい沈黙を破ったのは、電話のベルの音だった。 「はい、 <うさぎの穴> ……えっ、ほんとかい?」  マスターは送話口を押さえ、八環たちに声をかけた。 「 <名誉> 亭の雷華《らいか》ちゃんからだ。例の女性、池袋駅の近くで見かけたらしい」    7 誘拐  唯樹は池袋駅周辺をさまよい歩いていた。  特に目的があったわけではない。あの男の追跡を振りきろうと、地下鉄やタクシーをでたらめに乗り継ぎ、東京じゅうを逃げ回った末、ここにたどり着いたのだ。振りきれたかどうかは分からない。あの男の神秘的な力なら、どこにいようと探り当てられてしまうかも——何にせよ、所持金は残り少なく、もうどこにも行けそうになかった。  人通りの多い場所なら、あいつも襲って来ないだろう。そう思って、池袋駅とサンシャイン60を結ぶ通りを、あてもなく何回も往復し続けた。空腹だし、ひどく疲れてもいた。だが、歩みを止めるのが恐ろしかった。  時刻は夜九時。ゲームセンターからはにぎやかな音楽が流れ、きらびやかに輝く看板の群れが、通りをカーニバルの雰囲気に染めていた。彼女の周囲を行き交う男女は、誰《だれ》もみな幸福で、楽しそうだった。  唯樹だけが孤独だった——不幸で、希望もなく、みじめだった。この池袋だけでも何万人という人がひしめいているというのに、助けてくれる者は誰もいないのだ……。 「おや、偶然ですね」  背後からいきなり声をかけられ、唯樹は飛び上がった。振り返ると、そこに立っていたのは、スーツ姿の零次だった。 「昼間、何か私にお話があったんじゃありませんか?」  零次はにこやかな笑みを投げかけていた。人畜無害で誠実そうに見え、どんな人間の疑念も溶かし去り、信頼させてしまう魔法の笑顔——証券会社の社員には不可欠の能力だ。 「ああ……!」  唯樹は安堵《あんど》した。緊張からどっと解放されるのを感じる。そうだ、零次に助けてもらおう。どこか遠くへ——あいつの手の届かないところへ連れて行ってもらおう。 「こんな道の真ん中じゃなんですから、場所を変えましょう。こっちです」  そう言って零次は、唯樹をうながした。彼女は深く考えることもせず、ふらふらとその後について行った。疲労と精神的虐待のあまり、すでに正常な判断力が麻痺《まひ》していたのかもしれない。  裏通りに黒いセフィーロが止まっていた。 「乗って」  零次は急《せ》かした。その時ようやく、唯樹の心に疑念が芽生えた。ぎょっとして、足を止める。この手口はまるで……。  その時、無関係の通行人を装って彼らの後ろを歩いていた男が二人、さっと近寄ってきて、唯樹を両側からはさみこんだ。見事に連係のとれた動きだった。彼女は三方を囲まれたうえ、脇腹《わきばら》に何か堅いものを押しつけられた——ナイフだ。 「乗れ、って言ってんだよ」  あのにこやかな表情を浮かべたまま、零次はドスの利いた声で唯樹の耳許《みみもと》にささやいた。 「また取り逃がしたあ!?」  池袋に向かって走るワーゲンの中で、八環は携帯電話に向かって怒鳴っていた。 「大塚方面に向かったんだな?……ああ、分かった分かった。弁解はいいから、とにかく大至急、その二台の車の特徴を詳しくネットに流してくれ。全力を挙げて追跡するんだ。それと、発見しても不用意に近づくんじゃないぞ。かなり危険な奴《やつ》らしいからな」  そう念を押すと、八環は乱暴に電話を切った。 「どういうこと? 二台の車?」  助手席の未亜子が訊《たず》ねた。八環は不機嫌そうにうなずいた。 「ああ。妙な三人組が例の女性を車に押しこんで、走り去ったらしい。しかも、その後を別の車が尾行してた——後ろの車を運転してたのは、赤髪の白人女性だそうだ」  未亜子は眉《まゆ》をひそめた。「厄介なことになりそうね」 「まったくだ」    8 フューリーの怒り  文京区・大塚——  零次たちのグループのアジトは、お茶の水女子大からさほど遠くない雑居ビルの地下にあった。廃業した喫茶店の店舗を無断利用しているのだ。電気は止められているので、ロウソクやランプを持ちこんでいる。薄暗くて荒廃した雰囲気が「アジト」のイメージにぴったりで、零次は気に入っていた。  彼らのグループは全部で五人。他の二人もすでにリーダーの零次から連絡を受け、店内で待機していた。  彼らは客席用の革張りのソファーを並べ替え、ベッドとして利用していた。唯樹は手足をがんじがらめに縛られ、猿ぐつわを噛《か》まされて、その上に転がされていた。声を出すこともできず、自由に動かせるのは眼球ぐらいのものだった。五人の男が周囲を取り囲み、欲望に満ちたぎらぎらとした視線で自分の体をなめ回すように観察しているのを、恐怖の目で見上げている。 「どうも妙だな」零次はつぶやいた。「確かに会ったことのある女なんだが、いつ犯《や》ったのか思い出せない——おい、お前、覚えてるか?」  横にいる仲間に訊《たず》ねると、そいつは肩をすくめた。 「さあねえ。もうかれこれ三十人以上は犯ってるから、いちいち顔なんて覚えてないね」 「そりゃそうだな」  零次は唯樹に向き直った。あのにこやかな営業用スマイルだけは、決して崩すことはない。だが、その温厚そうな目の奥には、邪悪な光が宿っていた。 「俺《おれ》たちを恐喝するつもりだったのか? それとも謝罪しろとでも言うつもりか? 何にせよ、俺たちのポリシーってもんを、まだよく理解していないと見えるな」  零次はおびえる唯樹に顔を近づけた。ナイフの腹でぴしゃぴしゃと彼女の頬《ほお》を叩《たた》く。唯樹は悲鳴をあげようとしたが、猿ぐつわにはばまれ、「うう」というくぐもった声しか出せなかった。 「俺たちは女を人間だなんて思っちゃいないんだ。牛や豚みたいなもんさ。単に欲望を満たすためだけの存在だ。だから殺したって罪の意識なんか感じない。食欲を満たすために牛肉を食って、どうして牛に謝らなくちゃならないんだ?  そう、お前は俺たちの家畜なんだよ。おとなしく服従するなら、お情けで生かしておいてやってもいいが、反抗しようなんて考えたら……切り刻んでやる。牛肉みたいにスライスにしてな」  零次は饒舌《じょうぜつ》だった。侮蔑《ぶべつ》的な言葉を投げかけ、犠牲者を脅《おび》えさせるのが、楽しくてたまらないのだ。縛られた無力な女性が恐れおののく顔を見るのが、エリート証券会社員の退屈な日常の中で、最高にエキサイティングな瞬間だった。 「お前の体に、俺《おれ》たちの崇高な哲学をたっぷり教えこんでやる。家畜はいかに生きるべきか、って命題をな」  そう言いながら、零次は手を伸ばしてきた。男のごつい指が彼女の服のファスナーにかかった。  唯樹は恐怖し、心の中で絶叫した。違う、そうじゃない! そんな考えは間違ってる! 女はお前が思っているような存在じゃない!——だが、その悲痛な心の声は、零次に届くはずもなかった。 「およしなさい」  冷たい女の声が地下室に響き渡った。男たちは驚いて振り返った。  いつの間に現われたのか、喫茶店の戸口に、グラマラスな絶世の美女が立っていた。白人で、燃えるような赤髪。体にぴったり合った超ミニのワンピースを着ている。男なら——特に醜い欲望をたぎらせている男なら、その全身から発散する強烈な性的魅力に、とても抵抗できないだろう。  あいつだ! 唯樹は戦慄《せんりつ》した。土曜日の夜に渋谷で拾った、あの女だ。あいつがついにやって来た! 「おい、どうやって表の鍵《かぎ》を……!?」  男の一人があげた狼狽《ろうばい》の声を聞き、女は微笑《ほほえ》んだ。説明してやっても、彼らの愚かな頭では理解できるはずがない——炎を自在に操る者にとって、ちっぽけな鍵を焼き切るなど、造作もないことなのだ。 「あなたたちはその人をレイプしようとしているのね?」  女は流暢《りゅうちょう》な日本語で言った。最初は緊張した零次たちだったが、女がどうやらたった一人らしいと判断し、自信を取り戻した。五人がかりなら、女一人ぐらい、どうにでも料理できる。 「ああ、そうとも。それがどうした?」  零次は油断なくナイフを構え、女に詰め寄った。だが、女は動じる様子はない。 「レイプは正しいことだと思うの?」 「もちろんだ!」零次は自信たっぷりに力説した。「女なんてもんは家畜と同じだ。家畜には家畜の生き方ってもんがある。俺たちはそれを教えてやろうっていうのさ!」 「女もそれを望んでると思う?」 「当然だ! 女は誰《だれ》でも、心の底では、レイプされることを望んでる。レイプされることは女にとって最高の喜びなのさ!」 「そう?」  フューリーは顔をほころはせ、残忍な微笑みを浮かべた。その零次の言葉こそ、まさに彼女が望んでいた回答——犯罪者たちが自らに下す刑の宣告だった。 「だったら、その喜びを味わいなさい」  そう言うと、彼女はぱちんと指を鳴らした。 「うっ!?」  零次はうめき声をあげ、身をよじった。体内に異様な感覚が生じていた。まるで無数の虫が体の中を這《は》い回り、筋肉や内臓をひっかき回しているかのようだ。痛みはないものの、その不快感は強烈だった。震える手からナイフが滑り落ちる。彼は耐えられなくなり、床に膝《ひざ》をついた。  フューリーはさらに四回、指を鳴らした。他の四人の男たちも、次々に苦しみはじめ、床にうずくまった。  胸に手をやった零次は、恐怖に襲われた。胸が膨張している! 胸板が火にあぶられた餅のように膨れ上がり、立派な乳房が形成されてゆく。同時に、見えない巨大な手で上半身をわしづかみにされているかのような感覚があり、肋骨《ろっこつ》や肩甲骨が圧迫されて、肩幅がぎりぎりと狭くなっていった。腕から筋肉が失《う》せ、丸みを帯び、ほっそりとなってゆく。髪の毛がものすごい速さで伸び、床に垂れてゆく。  顔を上げた零次は、さらなる恐怖を覚えた。白人女性の姿も変化していた。背が伸び、肩幅が広がり、髪の毛が短くなり……サイズの合わなくなった服をびりびり引き裂きながら、屈強な男に変身してゆく。SF映画の一場面を見るようだが、これは目の前で展開している現実なのだ。  零次は悲鳴をあげた。だが、咽喉《のど》の奥からほとばしったのは、自分の本来の声とは似ても似つかない、かん高い金切り声——女の声だった。  その声は不自然に途切れた。零次は恐怖の表情を浮かべたまま、彫像のように硬直してしまった。他の四人も同様だった。フューリーが金縛りの術をかけたのだ。  ほんの十数秒前まで、室内にいたのは、五人の男と二人の女だった——今、室内にいるのは、一人の男と六人の女だ。 「さあ」フューリーは服の残骸《ざんがい》をむしり取りながら、楽しそうに言った。「パーティをはじめようか?」    9 恐怖は終わらない  乗り捨てられていた二台の車を発見し、周辺の建物を手分けしてしらみ潰《つぶ》しに捜索するのに、何時間もかかってしまった。ようやく未亜子が零次たちのアジトを発見したのは、もう真夜中だった。廃業している喫茶店の扉の鍵《かぎ》が焼き切られているのを発見し、ピンときたのだ。  だが、店内に踏みこんだ時には、おぞましい惨劇はほとんど終わりに近づいていた。  床の上には苦悶《くもん》のポーズで硬直している裸の女性。ソファーの上には服を着たままで縛られ、失神している一人の女性。床に散乱する衣服や血痕《けっこん》——その中央に、屈強な白人男性がすっくと立っている。  男は今まさに、犠牲者たちに火を放ち、証拠を抹消しようとしていた。 「およしなさい、フューリー!」  未亜子が言うと、彼は不思議そうな表情で振り返った。名前を呼ばれたことで、相手が自分と同様、人間ではないということに気がついたようだ。 「この国のデーモンか?」 「そうよ。この国にはこの国のルールがある。従ってもらわなければ困るわ」 「私を妨害しようというのか?」フューリーは敵意のこもった口調で言った。「私は正義を行なっている。法の網をかいくぐる者たち、卑劣な犯罪を重ねながら、のうのうと暮らしている者たちに、正義の裁きを下すために、私は生まれた。それを妨害しようとする者は、すなわち悪と見なさねばならない!」  未亜子は唇を噛《か》んだ。思った通り、生まれて十数年しか経《た》たないフューリーは、まだ完全に自由意志を獲得していない。プログラムされたロボットのように、型にはまった思考しかできないのだ。  それに、フューリーの動機には共感せざるを得ない部分もあるのは事実だった。彼=彼女を突き動かしているのは、極悪非道のレイプ犯に対する強烈な復讐《ふくしゅう》心なのだ。  何千、何万、あるいは何十万という数の、レイプの犠牲者たち。卑劣な男たちの暴力に屈し、泣き寝入りせざるを得ない女性たち。彼女たちの心の奥底にふつふっと煮えたぎる、犯人に対する激しい恨み、憎悪、怒り——それらの感情が結集し、具象化したのがフューリーなのだ。  あいつらに私たちと同じ苦しみを味わわせてやりたい。  あいつらを灼熱《しゃくねつ》の炎で焼きつくしてやりたい。  その声なき声の合唱が、復讐の女神フューリーを生み出した。暗い激怒を炎に変え、犯罪者を発見して処刑する者——法では裁けない悪を裁く残酷な正義の女神。  それが理解できるだけに、未亜子は本気でフューリーを憎む気にはなれなかった。確かに彼=彼女は残忍な連続殺人犯ではあるが、それを言うなら、自分もかつてはそうだったではないか?  そう、フューリーにも生まれ変わる機会を与えるべきだ。 「誤解しないで、あなたと戦おうとは思わない」相手を刺激しないように、未亜子は言葉を選んで発言した。「確かに、こいつらは最低の人間だわ。罰を与えられて当然よ」 「だったら、止めるな!」  フューリーは手を振り上げた。今にも指を鳴らそうとしている。 「待って。こいつらを焼き殺して、それで復讐になるの?」  フューリーは手を止めた。「どういうことだ?」 「犠牲者たちのことを考えてみなさい。彼女たちの苦しみは何年も続くのよ。一生、つらい記憶を背負い、心や体に受けた傷に苦しみながら生き続けなくてはならない——こいつらを殺してしまって、それで対等の罰と言えるの? 死んでしまったら、この連中の苦しみは終わってしまうのよ」 「……なるほど、そういう考え方があるのか」  フューリーは考えこんだ。生まれてからずっと、ターゲットを発見し、レイプし、焼き殺すのが自分の使命だと思っていた。生かし続けることが罰になるとは、思いもよらない考えだった。  昼間、唯樹を追跡していた時のことを思い出した。言われてみれば、あいつは哀れなほどおびえ、混乱し、逃げまどっていた。あれは確かに死よりも恐ろしい体験だったに違いない。それが一日だけでなく、一生続くとしたら……?  面白《おもしろ》い、とフューリーは思った。ただ殺すだけより、よほど重い罰ではないか。 「よかろう。その方式を試してみよう」  そう言うと、フューリーはぱちぱちと指を鳴らし、術を解いた。  床の上の女たちが、ゆっくりと男の姿に戻っていった。フューリー自身も本来の姿——赤髪の美女に戻ってゆく。  未亜子はフォルクスワーゲンに戻ると、携帯電話でネットワークに連絡を取り、フューリーとの間に和解が成立したことを伝えた。包囲網をただちに解除せよ。フューリーを発見しても手を出してはいけない。おとなしく行かせてやること……。 「本当にあいつはもう人を殺さないと思うか?」八環は疑わしそうだった。「これまで世界各地で、たぶん何百人というレイプ犯を焼き殺してきた過激な奴《やつ》だぞ。そう簡単に殺しをやめるとは思えないがな」 「やめるわよ」未亜子は自信たっぷりだった。「彼女は基本的に純粋で、正義感の強い妖怪《ようかい》なのよ。かなり歪《ゆが》んだ幼稚な正義感ではあったけど……それもこれも、まだ生まれたばかりで、完全な自由意志を獲得していなかったからだわ。自分でいろいろ考えるようになれば、正義の正しいあり方を学ぶのに、そんなに時間はかからないはずよ」 「更生のチャンスをやったわけか?」 「そう——それに、あの男たちにもね」 「ん?」 「あいつらの罪を許して、更生のチャンスをやったのよ」未亜子は唇を歪め、残酷な笑みを浮かべた。「あの男たちはもう二度と、『女はレイプされることを望んでいる』なんて、馬鹿な考えは抱かないでしょうね」 「う……ん?」  唯樹はうめきながら目を覚ました。惨劇の途中で、恐怖のあまり失神していたらしい。気がつくと、なぜか車の運転席にいた。縄を解かれ、リクライニング・シートに横たえられている。  その内装には見覚えがあった。そうだ、これは俺《おれ》の車じゃないか——あの日、女を誘拐するのに使い、マンションの駐車場に置き去りにした車だ。  違和感に気がつき、はっとして自分の体を撫《な》で回した。まだ女物の服を着ているが、胸のふくらみが消えている。慌てて起き上がり、ミラーを覗《のぞ》きこんだ。  鏡に映っているのは、見慣れた自分の顔だった。髪の毛も元の長さに戻っている。 「はは……ははははは!」  彼は喜びのあまり自分の顔や体をぴしゃぴしゃと叩《たた》き、笑い出した。 「戻った! 男に戻ったぞ! ははははは!」  これで家に帰ることができる。また会社にも通える。懐かしい生活が戻ってくるのだ——唯樹は涙を流しながら、リクライニング・シートを起こした。車を発進させようと、キーに手を伸ばす。  こんこん。  サイドウィンドウを誰《だれ》かがノックした。反射的に振り向いた彼は、電撃のような恐怖に襲われた。車内を覗《のぞ》きこんでいた女と、わずか二十センチの距離で、ウィンドウ越しに顔を合わせてしまったのだ。  あの赤髪の女だった。 「霞森唯樹」  女は楽しそうに彼の名を呼んだ。 「いずれまた来るぞ」  そう言い残すと、女は鮮やかな赤髪をひるがえし、彼に背を向けた。そして恐怖に硬直している唯樹をその場に残し、ハイヒールの音を路地に響かせて、闇《やみ》の奥に悠然と歩み去って行った。 [#改ページ] [#ここから5字下げ] Take-3————————  世の中本当に、腹立たしいことは多いもんです。  ちらりと新聞を覗《のぞ》いてみれば、連日のように政財界の醜聞が目に飛び込んでくる。税金は高くなる一方だし、景気はちっともよくならない。  最近じゃ若者によるわけのわかんない事件も多いし、相変らず夜中に近所を暴走する連中も元気がいい。教育や親の躾《しつけ》がなってないんでしょうね。  もちろん、彼らが育った環境にだって問題はあるんでしょうけど。  でもだからといって、どうしてそんな連中に迷惑かけられなけりゃならないんでしょう? 別になにも悪いことしてないのに。それにどうして景気は回復しないんでしょう? 一生懸命働いてるのに。  なんだか必死に頑張っているのがばかばかしくなってくる瞬間って、ありますよね。どれだけやっても、ぜんぜん報われないときとか、さっぱりうまくいかないときとか。  そのくせ、まわりには幸せそうな顔した連中がいっぱいいる。どいつもこいつも悩みのなさそうな顔で、楽しそうに笑ってる。  頭にきますね、ホント。  人が不幸のどん底にいるときに、幸せそうな顔を見ることほどムカつくことはないもんです。もちろん、どこが不幸のどん底なのか、よくわかんないんですけど。  でもそんなことより、幸せそうな奴らを見ていてムカつくということだけは確かです。こうなったぢ奴らに現実の厳しさってモンを教えてやらねばなりません。  復讐《ふくしゅう》を、してやらねばなりません。  それって、逆恨みだろうって? いえいえとんでもない。  幸せな奴ってのは、必ず誰かの不幸せの上に成り立っているもんなんです。誰かを蹴落としたものだけが、幸せになれるんですよ? じゃあ自分が不幸せなのも、幸せな誰かのせいに決まってるじゃないですか。  そうと決まれば、実行あるのみ。  まずは、誰から不幸せにしてやりましょうかね。  そこのあなた。幸せそうな奴、御存知ありませんか……? [#ここで字下げ終わり] [#改ページ] 第三話  邪念の群れ  友野詳   1.「あの車を売ってください!」   2.「ことの起こりは、あたしの誕生日でした」   3.「オーディション、大丈夫なの?」   4.「お前は、わしたちのもの……」   5.「お父さん?! お母さんが……」   6.「梨絵子さんは、あんたを売った」   7.「誰もあたしのことなんて……」   8.「たとえ、そうであっても、あきらめない」 [#改ページ]    1 「あの車を売ってください!」  バン! と、音を立てて扉が開いた。  普段は軽やかにからからと鳴るベルが、調べを乱す。  動作の乱暴さに似合わず、あらわれたのは華奢《きゃしゃ》で小柄な美少女だった。ジーンズの膝《ひざ》が破れ、トレーナーは泥で汚れている。  それまで静かなメロディを奏でていたピアノが途切れた。最後に不機嫌そうに、不協和音を一つ響かせて。  ピアノの前には誰《だれ》も座っていない。  肩で息をしていたのをどうにか整え、少女は口早に言った。 「ワーゲン、ありますよね。駐車場にあるの、フォルクスワーゲンっていう車ですよね」  体格に似合わず、よく通る、美しい声だ。さほど広くないバー <うさぎの穴> のすみずみまで響いた。  いあわせた者たちは、そろって彼女を見つめていた。このバーを訪れる『人間』たちは、彼らの友人であるか、それとも、何かの問題をかかえている者だ。そうでなければ、ここへと通じるエレベーターを見つけることはできない。  自分を取り巻いている沈黙に、少女は声を細らせた。 「あのワーゲンが止まっているの、ここの駐車場ですよね?」  かたんと小さな音がして、少女はバネがはじけるように背後をふりかえった。  何かに追いかけられている者、特有の仕草だ。音は、風のいたずらだったのか、少女の背後には影がわだかまっているだけだった。  けれど、少女の表情は、ふたたびせっぱつまったものになっている。 「あの、ワーゲンの持ち主の人、いませんか? あたしに売って欲しいんです」  少女は背負った小さなリュックに手を伸ばした。それを開けようとして、なぜか彼女は一瞬|躊躇《ちゅうちょ》した。何かが飛び出してくるのを怖がっているかのように。  彼女は預金通帳をとりだした。スヌーピーが表紙を飾っている。 「古い自動車ってプレミアもので高いんですよね。三十万ちょっとしかないんです。足りないのは、後でなんとかして払います」  美少女だ。化粧をしていれば、アイドルなみの。プロポーションもなかなかだし、顔だちはくっきりとして整っている。  けれど今は、額に青い痣《あざ》があって、頬《ほお》にもすり傷がある。 「ねえ、誰なんですか、今のあれの持ち主。お願いです、買い戻させてください」  彼女の呼びかけに、誰も答えを返さない。無我夢中だった表情が、冷静さを取り戻して——いや、後悔の色を浮かべてゆく。  彼女は、自分を見ている四対の瞳《ひとみ》を、順繰りに見回した。  くちびるは、かすかに開き、震えている。本当なら、若くてつややかなはずの彼女のくちびるは、疲れと渇きでひび割れていた。 「お願い……」  大きな瞳に、じわりと涙がにじみ出る。 「まあ、落ち着きなよ。あれの持ち主はここにはいないけど、きみみたいな子なら、きっと乗せてもらえるさ」  体格のいい、整った顔だちの青年が、にっこりと笑った。体を沈ませていたソファから立ち上がり、手近のグラスにミネラルウォーターをそそぐ。  それを手にして少女に近づこうとする彼の、ふとももの真ん中あたりの高さに、彼の腕ほどの太さしかない足が、にゅっと突き出された。  素肌のそれは、ぶかぶかのショートパンツから突き出ていた。少し大きめのスニーカーを、ぶらさげるように履《は》いている。  足の主は、飛びこんできた少女よりも、いくらか年下に見えた。中学生くらいの、女の子。カウンターのスツールに座って、若者をさえぎった。 「流《りゅう》くぅん。女の子だと思って、見境いなしにちょっかいかけないのよん」  からかうような口調で、彼女は言った。 「かなた、お前さん、俺《おれ》ってものをなんだと思ってるんだ? 助けを求める女の子を、不安なままにほうっておけるような男だとでも……」  流の台詞《せりふ》にかまわず、かなたと呼ばれた女の子は、少女に顔を向けた。  少女は、戸惑った表情で彼女たちを見ている。 「ねえねえ、何をそんなに怯《おび》えてるの? ここにいれば、安心していいんだよ」  かなたが笑顔を向ける。けれど、彼女が言葉を続けるよりも先に、ゆっくりと流れる血のように音もなく、少女の背後にひそやかに近づいた美しい、影があった。 「あなた、お名前は?」  美影は、少女の背後に立ち、肩ごしに耳もとで囁《ささや》いた。冷たい吐息が耳をくすぐり、少女が、ぎょっとして背を震わせる。 「あ……あの……」 「未亜子《みあこ》さん、からかっちゃかわいそうだよ」 「からかってなんかいないわ。当たり前のことを訊《たず》ねただけよ」  未亜子と呼ばれた美しい女性は、真紅のくちびるからそんな言葉をつむいだ。少女はふりむき、みがかれた磁器のような白い顔を見上げた。  人生経験の少ない少女には、未亜子の凍りついたような美貌《びぼう》の奥に、どんな感情が隠れているのか、読み取るのは難しい。しばらくのあいだ、少女は、大人の女性にみとれていることしかできなかった。 「私の質問には、答えてもらえないのかしら。もう、言葉は使い果たしたの? 礼儀知らずにわめき散らした、あれだけで」 「ねえ、未亜子さん、それは可哀《かわい》そうじゃ……」  かなたを、未亜子が一|睨《にら》みで黙らせる。かなたは、カウンターの奥の父に視線を送った。だが、 <うさぎの穴> のマスターは、小さく首をふった。父がかまわないというのなら、止めなくていいのだろう。未亜子には何か考えがあるのだと、かなたは判断した。 「流くん。そのお水を持ってきてちょうだい。少し湿らせないと、話すこともできないみたい」 「はいはい。ほら、かなた、脚どけろって」  未亜子が視線をそらしたとき、少女はきゅっとくちびるをひき結んだ。 「あたしは、館林《たてばやし》梨緒《りお》っていいます」  少女は、ふたたび戻ってきた未亜子の視線を、きちんと正面から受け止めた。  萎《な》えかけていた意志が、復活している。 「あなたの名前も、教えてください」  梨緒は、強い口調で言った。 「九鬼《くき》未亜子。ここの常連客よ」  そして、美女は、うながすようにうなずいてみせた。 「表の駐車場に、古いフォルクスワーゲンが止まってますよね。今、あれを持っているのって、あなたなんですか?」 「違うわ……。面倒を見たことはあるけど、もう昔のことね」  未亜子の答えを、梨緒は理解できないようすだった。 「彼に持ち主はいないわ。だから、あなたが、どうしても必要だというなら、乗ろうと試みることはできるの。免許はあるのかしら?」 「あ、あるわ」  答えた梨緒の声は震えていた。未亜子は、じっと梨緒を見つめている。少女の肩ががっくりと落ちた。 「免許はないんです……でも、どうしても、あの車が……お母さんがそう言ったのよ」  梨緒は、うつむいて自分の体を抱いた。泣いているようだが、涙はこぼれていない。ぎりぎりでこらえているようだ。 「ねえ、梨緒ちゃん。事情を説明してくれないかなぁ」  流が、コップをさしだしながら言った。  梨緒は、顔をあげて彼を見た。五割くらいの女の子は、彼を見るとどきりとした顔になる。けれど、梨緒の表情は違った変化をした。  何かを期待して、口を『う』の形になるかならずに開き、けれどそこで何かを思い出したようにまばたきして、そして諦《あきら》めを瞳《ひとみ》に浮かべ、力なく首を左右にふった。  話しても無駄《むだ》だと、無言のうちに語っている。 「ここのこと、誰に聞いたの? 噂《うわさ》で?」  かなたが声をかける。 「ここのことっていうか……。占い師の、原宿で店を開いてる、霧香《きりか》さんって人。なんでも言いあてるって、知りあいの人が教えてくれて」  話しだすと、せきを切ったように言葉があふれ出てきた。恐怖を押し隠すには、話しているのがちょうどいい。 「なんとかならないかって、見つけてくれるんじゃないかと思って相談してみたの。そうしたら……、言われた通りに来たら、本当にあった。どうしても、あのワーゲンは必要なの。命がかかってるのよ。お母さんが……、だって、お母さんが……」  言葉の途中で、梨緒は未亜子に視線を戻した。もう一度、力をこめて瞳をあわせる。  未亜子のくちびるの端が、かすかにあがっていた。微笑《ほほえ》み、なのだろうか。 「命がかかってるってのは穏やかじゃないな。ねえ、話してみないか。俺《おれ》たち、けっこうたよりになるぜ」  流が、梨緒の背中に軽く触れる。しかし、すぐに離れた。未亜子が、梨緒の肩を掴《つか》んで引き寄せたからだ。未亜子は、何かを思い出そうとしているかのように眉《まゆ》を寄せている。 「おいでなさい」  梨緒の顔に戸惑いが浮かび、それはすぐに消えた。かわりに浮かんできたのは反発だったが、それもまた消える。梨緒は、未亜子に導かれるまま、その後に従った。  扉が開く。未亜子を送りだすように、ベルが鳴り、そしてピアノが曲をかなでた。  ほんの一瞬足を止めて、未亜子はちらりとふりかえった。 「流くん、これ、借りてゆくわよ」  未亜子が、携帯電話をかざしてみせる。流は、あっと表情をかえて、ふところを探った。 「いつの間に……。あ、やばい。未亜子さん返してくださいよ。せ、せめて出ないで……」  未亜子の姿は、梨緒ともども消えていた。  複数の彼女たちの誰《だれ》かから、いつ電話が入るかもしれない。自分が何を言ったところで未亜子が意志を変えるはずもなかったが、口にせずにはいられなかった。あの未亜子の、腰から脳天を直撃するような色っぽい声で、その電話に出られた日には……。  言い訳と、埋め合わせのプレゼント負担を考えて、流ががっくりと肩を落とす。 「ねえ、父さん。未亜子さん、免許あったんだっけ?」  かなたが、マスターに問いかけた。 「三日前にね。とったはずだよ。なければ、ワーゲンくんは運転席には座らせないからね」  マスターが、難しい顔で白いひげをひねりあげる。彼の表情が何を予想してのことなのか、かなたには見当がつきかねた。少なくとも、未亜子の運転技術を心配してのことではないはずだ。乗ってゆくのは、あのワーゲンなのだから。あの少女が、どんな事情をもっているにしても、未亜子がついているなら、心配することなど……。  まだ時刻は夕暮れをすぎたばかりで、いつもの面々は、これからあらわれるだろう。  そうしたら、謎《なぞ》解きをしてもらえるかもしれないと、かなたは思った。 「そういえば、八環《やたまき》さん出かけてるんだっけ」  未亜子の恋人とみなされている鴉天狗《からすてんぐ》は、人間としての顔である山岳カメラマンの仕事で、深い山中にいるはずだ。    2 「ことの起こりは、あたしの誕生日の翌日でした」  梨緒は、さっき来た道を戻った。  薄闇《うすやみ》の中、ほとんどの人がふりむきもしないビルの谷間に、小さな駐車場がある。そこに、梨緒の言う、フォルクスワーゲンは止まっていた。  最後の瞬間、梨緒は小走りになった。未亜子に先んじて、ワーゲンのドアの前にまわりこむ。 「危ないんだから、もうついて来ないでください」  梨緒は、未亜子が入れないように、立ちふさがったつもりだった。自分の危難に、よその人をまきこんではいけない。  誰《だれ》にも甘えない。お母さんが甘えさせてくれないのに、他の人のところでそんなことするのは、裏切りだ。お母さんが、怒るかもしれない。そうしたら、もう、ずっと駄目《だめ》になるかも。  自分の力で助けて、褒《ほ》めてもらいたい。  大きく手を広げて、未亜子を睨《にら》んでいた梨緒の尻《しり》を、背後からそっと誰かが押しのけようとした。ぎょっとして、ふりむく。いつのまにか、ワーゲンのドアが開いていた。  硬直している梨緒を尻目に、未亜子が素速く乗りこむ。 「早くなさい。免許なしに、この車に隠れているだけで、なんとかなることなのかしら?」  未亜子が、長い足を窮屈そうに折り曲げながらうながした。  梨緒は、息を一つ吸いこむあいだ躊躇《ちゅうちょ》して、それから、助手席に乗りこんだ。彼女は、助手席側のドアも、いつのまにか誰の手にもよらず開いていたことに気づいていない。 「いたずらや冗談で言っているわけじゃないんです。本当に、危ないんです」  梨緒は、そう言いながら未亜子の横顔へ視線を走らせて。  言葉が、途切れてしまった。  黒い髪は、夜のように白い肌を腰のあたりまで流れ落ちている。切れ長の瞳《ひとみ》は、闇《やみ》をたたえて暗く、赤いくちびるは血の色。額からはなすじ、顎《あご》に至る曲線は優美なカーブを描いている。  梨緒は、はっとルームミラーを見上げた。  容姿には、自信があった。けれど、鏡の中にいるのは、痣《あざ》とすり傷だらけの、貧弱な女の子でしかない。 「ほんとなら、今ごろ……」  そんな呟《つぶや》きを洩《もら》してしまって、あわてて奥歯をくいしばった。涙は見せちゃいけない。お母さんは、泣き顔が嫌いだからだ。幼い梨緒が泣くたび、凍りついていた母。  梨緒は、あらためて未亜子のようすをうかがった。彼女は、ハンドルに、繊細な指先をからめている。気がつくと、左右の風景が流れていた。いつのまにか、ワーゲンは動き出していたのだ。衝撃はまるでなかったのに。 「う、うまいんですね、運転」  口をついて出たのは、そんな言葉だった。言ってしまってから、悔やむ。媚《こ》びたみたいに聞こえなかっただろうか。 「目的地はないのね? 適当に、流して走りましょうか」  未亜子は、はじめの言葉を梨緒に向けて、後半を正面というよりは、バックミラーの方に向かって口にした。  梨緒は、なんとなくその動作に違和感を憶えて、片方の眉《まゆ》を小さくあげた。 「あなたの動作、なんだかほんの少し、おおげさな気がするわ。お芝居しているみたい。そういえば、発声練習をしたことがあるような声だったわね」  未亜子は、言葉の途中で梨緒に向き直った。手は片方だけが、ハンドルの上にちょんと乗っている。  危ないと、注意する気は起きなかった。未亜子は、微笑《ほほえ》んでいる。これほど美しい人が、事故なんて起こすわけはない。理性は無視して、感性でそう判断してしまったからだ。 「はい。勉強してます。声優の卵で、歌のレッスンも……。あの、ええと、未亜子、さんも、もしかして歌われるんじゃありませんか?」  彼女の声を聞いて、梨緒はそう感じていた。 「ええ。夜のお店でね。それでお金をもらっているわ」  未亜子は、そう答えると笑みを消して、梨緒を見つめた。  窓の外で、さまざまな色のネオンが流れてゆく。速度はずいぶん出ているはずだが、静かだった。ほとんど揺れもしない。 「私は、あなたを信じるわ」  未亜子が、静かな声でつけくわえた。決して押しつけがましくならない、素直に心にしみいる声音で。  流には、話す気になれなかった。いや、これまで誰《だれ》にも話せないでいた。霧香にも、彼女を紹介してくれた人にも、詳しい事情は説明していない。  信じてもらえない予感からだけではない。誰かに話して、あれが事実起きたのだと認めるのが怖かったからだ。けれど、この美しい人のそばにいれば……と、梨緒は思った。  彼女の母も、美しい女性だった。 「あれがはじまったのは、たぶん一週間前。……あたしの誕生日の翌日からだと思います」  一度口を開いてしまうと、記憶は、容易には止まらない勢いであふれ出てきた。  その日、十六歳になったばかりの梨緒は、はずむような足取りだったはずだ。  ボイスレッスンの後、事務所の藤堂《とうどう》さんから、オーディションの話があったのだ。  合格すれば、初夏に発売される恋愛シミュレーションの、エンディングソングを歌わせてもらえる。人気ゲームの続編で、かなりのヒットが期待されていた。その歌も、CDシングルとして発売される予定になっている。つまり、もし選ばれれば、本格デビューのチャンスだ。  児童劇団にいて、高校に入る時に藤堂さんに声をかけられて、今の事務所に所属するようになった。いつか、大きな仕事をしてみたいと、ずっと望んできた。具体的に売上げやファンの数で評価してもらえるような仕事を。  アイドルになって、ちやほやしてもらいたいわけではない。自分が人に褒《ほ》められる姿を見て欲しい人がいる。客観的なそんな評価があれば、その人も認めてくれるかもしれない。  その日は気分が浮き立っていたので、いつもなら少しびくびくしながら帰る夜道も、恐ろしさは感じなかった。  梨緒の家は、都心から私鉄で三十分ばかりのところにある。駅から、自転車で十分ほどかかる。途中に、ほとんど街灯もない、バブルの崩壊で、工事が止まってしまっている、造成地の一角がある。週に三回のレッスンを終えて帰る頃《ころ》には、あたりは真っ暗だ。  いつもなら、ヘッドホンステレオで音楽を聞いて、恐怖をまぎらわせる。  今日は電池が切れていた。だから、自分で歌っていた。もしかしたら、エンディングを歌えるかもしれないゲームの、前作で使われた歌だった。ゲームを遊んだことはないが、歌っている声優は、梨緒と同じ事務所だ。たまたま、CDをもらい、気にいって覚えた。その女性は、今の梨緒には天上の人のように思える。  見上げれば、夜空に星。 『いつかは、あたしも』  あそこに手を届かせることができるだろうか。あんな風に輝けるだろうか。  目の前に垂れさがった、細い細い糸。それを登るためには、途方もない努力が必要で、糸が切れないためには運が必要だと知っている。でも、やってみる前からあきらめるつもりもない。  人気のない、暗闇《くらやみ》の道も、今日は星明かりだけで充分に思える。出るという噂《うわさ》の痴漢もお化けも、簡単に撃退できそうだった。児童劇団の頃に出た戦隊もので、ピンクが怪人をやっつけた光景を、梨緒は思い出していた。  いつもならこの暗闇の地域は、全速力で駆け抜ける。けれど、今日は、歌のリズムにあわせてゆっくり目にペダルをこいでいた。  そして、もうすぐ明るい通りに出るというところで、歌が終わりかけた。サビのフレーズを口ずさむと、体がふわりと浮き上がるような高揚感に包まれる。いつもなのだけれど、今日のはとびきり……。 「くすくすくす」  笑いは、はっきりと耳に届いた。 「え? ええっ?」  梨緒は自転車を止めた。ブレーキが、きゅっと音を立てて、その笑いをかき消した。 「……また会おう、明日」  最後のフレーズを呟《つぶや》くように歌い終わって、梨緒はあたりを見回した。  どこからか聞こえたその笑いに、梨緒は自分に対する明白な悪意を感じたのだ。お前になんてできやしない、そんな風に嘲《あざ》けられたように思えた。 『空耳……、聞き間違い……、何かそんなのだ』  さっきまでの、幸せな気分は、どこかに消え去っていた。  左は、建築途中でとまったきりの建売り住宅。右は、宅地として造成だけされて、そのままになっている空き地。  どちらにも動くものの影はない。静かなものだ。  もちろん、前にも誰《だれ》もいはしなかった。あと、ほんの七、八メートルも進めば、明るい通りと交差している。右に曲がって三十秒も自転車をこげは、通いなれたコンビニが煌々《こうこう》と光をはなっているだろう。  笑いは、左からではない。右からでもない。前でもありえない。  梨緒は、ゆっくりと背後を確かめた。  彼女は、くちびるを小さく開いて、ひゅっと息を吸いこんだ。  視野の片隅で、何かが動いたような気がしたのだ。猫だろうか? それとも、犬だろうか。ちょうど、それくらいの大きさだった。けれどそれらは、かさこそという音を立てるだろうか?  確かに聞こえた。気のせいではないと思える。 『まるで、大きなゴキブリみたいな……』  そんな連想をしてしまった途端、ぞうっと、全身が総毛立った。梨緒は、全力でふたたび自転車をこいだ。  耳の奥で、何度も何度も、あのくすくす笑いが木霊《こだま》していた。  その日は、それ以上おかしなできごとはなく、翌朝になって登校するころには、奇妙な笑い声のことなどすっかり忘れていた。  高校の帰りに事務所によって、カラオケのテープと楽譜、歌詞をもらった。二、三日のうちにデモテープを録《と》るから練習しておけと言われたが、その日はレッスンはなし。  まだかすかに陽が残っているうちに、家路につくことができた。  真っ赤に染まった時刻のその通りは、まだちらほらと人通りもあり、かすかな笑いなど、聞きたくても聞き分けられないざわめきに満ちていた。  そして、さらに翌日。  また、遅くなった。いつもの基本的なボイスレッスンの後、前日にもらった曲を試しに歌った。先生は、厳しい表情だったが、何も言わなかった。何もだ。  叱《しか》られなかったのは、はじめてだった。  事務所の藤堂さんも顔を出してくれていて、彼のほうは褒《ほ》めてくれた。梨緒の声の質のことは、藤堂さんはいつも評価してくれている。今日は、歌にいつになく気持ちがこもっていると、そんな風に言ってくれた。  だから、ボイスレッスンの先生が何も言わなかったのも、うまく歌えたからだと思っていた。気持ちは、また高揚していたのだ。明日が、光に満ちているような気がしていた。  それなのに、あの暗闇《くらやみ》にさしかかったとき、急に不安が首をもたげてきた。 『もしかしたら、何も言ってもらえないのは、見捨てられたからかもしれない。言うだけの価値もないって、思われたのかも』  藤堂さんの、福々しいにこにこ顔を思い出す。あれも、慰めのための嘘《うそ》だったかもしれない。丸いおなかの藤堂さんは、機嫌がよくても悪くても、いつも笑っている。  ペダルを踏みこむ力が失せて、梨緒は闇の中で止まってしまった。  その途端。 「くすくす……」  あの笑いが聞こえた。  まるで、自分の内側から聞こえたような気がして、ぎょっとした梨緒は体を抱きしめた。 「……」  かすかな声が聞こえた。日本語とは思えない、不思議な音の羅列だった。 「誰《だれ》? あたしが、誰かのものって……どういうこと? 十六歳になったから、どうして誰かのものにならなきゃいけないの?」  呟《つぶや》いてから、梨緒は自分の言葉になんの根拠もないことに思い当たった。そもそも、さっき聞こえた音が、どうして言葉だと思えたのか。しかも、意味まで。 『あたし、怖くて……。ううん、空耳……』 「るきゅ、えんてれす、ばあく」  また、あの奇妙な音が聞こえた。そして、それはまた、彼女には言葉であるかのように理解できたのだ。 『まだ、もう少し、熟してからにしようや』  それは、彼女のすぐ後ろから聞こえたような気がした。ぞわりと、背中が震えた。  梨緒は、地面についていた右足をあげて、あわててペダルを踏みこんだ。  その途端、何かが彼女の手前に投げこまれた。それとも、飛びこんできたのだろうか。生き物のようだったが、止まるには、もう遅すぎた。  自転車が、大きくよろけた。驚いたせいではない。ほうりこまれたそれを踏みつけたからだ。そして、悲鳴は、その車輪の真下から聞こえた。 「ふみゃあ!」  骨が折れる嫌な音といっしょに、聞こえた叫び。 「いやぁっ!!」  梨緒は、一度握りしめかけたブレーキを離して、思い切りペダルを踏みこんでしまっていた。 「嘘、嘘、嘘嘘嘘。墟っ」  明るい道に出て、勢い余って車道に飛び出しそうになった。車をかろうじて避けて、どうにか曲がる。とにかく人の顔が見たくて、梨緒はいつものコンビニに飛びこんだ。  自転車を地面に倒して、自動ドアにぶつかりそうになりながら入りこむ。店員がたった一人の他には、誰もいない。けれど、明るい照明に梨緒は安心して、体中の力を抜いた。へなへなと、床に座りこむ。 「ねえ、どしたの? あやしいのに襲われでもしたかにゃ?」  いきなり、顔をひきつらせた女子高生に飛びこんでこられたにしては、コンビニの店員の声は、ずいぶんと気楽そうだった。 「ああ……えっと。襲われたっていうか。その、襲ったっていうのか」  その店員は、二十歳くらいの女性だった。彼女は、どうにか梨緒を落ち着かせ、前後する説明を理解してくれた。 「猫が? 猫を轢《ひ》いちゃったのね」  もともとつりあがり気味の目が、ますますつりあがった。 「とにかく、死体をそのままにしとけないわ」  むすっとした口調でそう言って、コンビニの店員は、誰もいない店をほうったらかしにして行ってしまった。梨緒は、どうしていいのかわからず、床に直接座りこんだまま、彼女が戻ってくるのを待った。  十分ほどすぎただろうか。幸いなことに、他の客は来なかった。  梨緒が、どうにか立ち上がれるくらいの気力を取り戻したときに、店員は戻ってきた。丸みを帯びた顔には、怒気があらわだ。 「死んでた。ときどきここの裏口にも餌《えさ》をもらいに来てた、野良の子」  ぶっきらぼうに、彼女はそう告げた。 「あたし……あたし、そんなつもりじゃ……なかった、でも……」  か細くなりそうな声を、梨緒は必死にふるい起こした。こぼれそうな涙を、なんとか食い止める。泣かない。小学生の時、母に、そんなことしても誰《だれ》も助けてくれないと言われてから、涙を見せるのはやめた。 「ほうりだしたのは悪かったと思う。でも、とにかく、びっくりしちゃって」  おかしな声のことを話そうとは思わなかった。自分でも、本当に聞こえたと信じてはいない。 「うん、わかってる。あなたのせいじゃないのもね」  コンビニの店員は、大きな瞳《ひとみ》でじろりと梨緒を見た。彼女の目が、赤く光ったような気がして、梨緒はまばたきをした。 「細かい傷がいっぱいあった。ナイフじゃなさそうだった。噛《か》み傷みたいだったけど、猫同士の喧嘩《けんか》にしてもあれは……。ま、とにかく、誰かがあの子をいたぶって、そしてとどめを刺すために、自転車の前に放り投げたのよ」  梨緒は、よろめいた。コンビニの店員は、素速く手を伸ばして梨緒の腕を掴《つか》み、彼女の体を支えてくれた。そして、顔を近づけて、息のかかりそうな距離で、問いかけてきた。 「犯人を見つけて、仇《かたき》討ちはしてあげたいけど……ねえ、何か見なかった?」  梨緒は首を左右にふった。  あの時、猫を投げつけてくる人影など、梨緒はまるで見なかった。猫は、まるで、地面に長く伸びた影の中から飛び出してきたように思えたのだが、それを口にする気にはなれなかった。  たぶん、痴漢か何かがいたのだ。見間違えたのだ。あの声だって、もしかしたら……。  そんな風に自分に言い聞かせながら、梨緒は、怯《おび》えた表情で否定の仕草をすることしかできなかった。 「あたし……わからないです。あたしに、嫌がらせをする人なんて」  ただ、梨緒は、無意識のうちに、猫ではなくて自分が狙《ねら》われたのだという認識を、口にしてはいたけれど。  それまで、怒りしかなく、梨緒への同情がまるで感じられなかった店員の瞳《ひとみ》に、いぶかしげな色あいが浮かんだのは、その時だった。 「あなた……不思議な匂《にお》いがしている」  コンビニの店員は、梨緒の髪に鼻先を埋めるようにして言った。彼女の瞳が、完璧《かんぺき》な三日月型になっていることを、だから梨緒は見てとることができなかった。 「気にしないで、忘れちゃえばいいわ。でも、できるなら、しばらくあの道は通らないほうがいいかもね……」  彼女の指が、梨緒の頬《ほお》に触れた。涙が止まらないままで、梨緒はうなずいた。猫のことは可哀《かわい》そうだと思ったが、慰めてくれる人のぬくもりが、救いだった。誰かに触れてもらうのは、とても久しぶりだった。    3 「オーディション、大丈夫なの?」  それ以上おかしな目にあわず、梨緒は家にたどりついた。  小さいが一戸建て。築後三十年ばかり経《た》つ古い木造家屋だが、まだまだ基礎はしっかりしている。  梨緒が六歳の時に亡くなった、母方の祖父が遺《のこ》してくれたものだ。  大阪万博の頃《ころ》——と言われても梨緒にはまるでぴんとこないのだが——までは、辣腕《らつわん》の実業家として、活躍した人らしい。  しかし、ある時機を境に急にやることなすことうまくゆかなくなり、最後に残ったのはこの小さな家と土地だけだった。梨緒の記憶にある祖父は、いつも穏やかに笑いながら、日なたぼっこと散歩だけしている人だ。  梨緒の父は、母が受け継いだこの家に入り、二年前に亡くなるまで祖母とも同居していた。いわゆる、マスオさん状態というやつだ。  梨緒の父は養子ではない。けれど、梨緒の父のそのまた父母は、彼が大学生の時に亡くなっており、彼には帰るべき家がなかった。 『父さんは、この家を新しくして、梨緒にあげるために働いてるんだ』  休日出勤する父に、たった一度だけ梨緒がだだをこねたとき、そう答えられた。  五年前に改築した、表面ばかりが豪華なドアを開けて、声をかけた。 「ただいま」  返事はない。ドアに鍵《かぎ》はかかっていなかった。いつものことなので、梨緒はそのままあがった。ガラス戸の向こう、居間からちらちら動く光と音が洩《も》れてくる。  開けると、やはりいつものように母が、ぼんやりTVを見ていた。旅行を扱ったなんということのないバラエティだ。  父はいない。忙しいビジネスマンで、バブルがはじけてもいっこうに暇にならず、今も関西に単身赴任している。 「お母さん」  呼びかけても、母はふりむこうとはしなかった。梨緒の気配を感じていないわけもないのに、『おかえり』の一言もない。破れたスカートと、すりむいた傷の言い訳をしなくてすむのはありがたいけれど。  いつからこうなのか、もう忘れた。梨緒がものごころついた頃《ころ》には母は、梨緒を見なくなっていた。彼女がいないものであるかのようにふるまうことも多い。  祖母が生きていた時は、あれこれと過剰なくらいに世話を焼いてくれた。児童劇団に入りたいと言ったとき、つきそってくれたのも祖母だったし、ずっとお弁当を作ってくれたのも祖母だ。母は、梨緒をふりむかない。  自分が、何かで母を失望させでしまったのだと考えはじめたのはいつからだったろう。  ともかく、梨緒は、母に対して愛情をしめすのをやめた。母が負担に思うかもしれないと怯《おび》えて。愛していないと言われるのが怖くて、その時に、失った時のつらさが少しでも減るかもしれないと思って、かまってもらえなくても自分は元気だと、演技するようになった。  でも、ふりむかせたくて、何かで自分をアピールしようと思った。  勉強は得意ではない。運動も苦手だった。けれど、梨緒の容姿、そして声を褒《ほ》めてくれた人たちがいた。梨緒はたった一つ、自分にもできるかもしれないと思えたことをはじめた。  母自身を感動させることはできなくても、たとえばCDを売ったり、映画に主演できたりすれば、そういった客観的な評価が得られれば母もこちらを向いてくれるかもしれない。  梨緒は、TVにうつろな視線を向けている母の横顔を見つめた。  梨緒は、自分の容姿にそれなりの自信を持っている。けれど、母にはとてもかなわない。うつろな顔をして、あんなに綺麗《きれい》なのだ。いつか、母が生き生き笑って褒めてくれたなら、その時の母はどんなに美しいだろう。  それは手が届かないものなのか。得られないのなら、はじめからなくても当たり前なのだと、家庭ではふるまってきた。  でも、本当は……。 「夕御飯はそこよ」  TVから目をそらすこともなく、そっけなく言われた。その一言で、梨緒は救われたような気分になった。  暖めるだけでいいレトルト食品が、食卓の上に置いてある。毎日これで、母や自分がプロポーションを維持できているのは、体質なんだろうが奇跡的だと思う。 「うん。あたし、これ好きだよ」  梨緒は、それ以上、何も言わず、黙々と食事を口に運びはじめた。  祖母は話好きだった。父が転勤になる前は、たまに早く帰ってきた時など、学校で何があったか、とかを訊《たず》ねてくれたけれど。  食事を終えた梨緒は、いつものように、後始末をした。母が使った食器も、自分のと一緒に片付ける。  部屋に戻った梨緒は、風呂にも入らず布団にもぐりこんだ。コンビニの店員の忠告に従ってとにかく、何もかも忘れて眠ろうとしたのだ。  その日、梨緒は久しぶりにあの夢を見た。  とても暖かいものに包まれている夢だ。そして、頬《ほお》に冷たいものがあたって目覚める。  まぶたを開くと、いつも自分の目尻《めじり》から涙がしたたり落ちていることに気づく。  けれど、梨緒はこう想像している。  これは母の涙なのだと。  何かの理由で、自分を愛していることを表に出せないでいる、母の涙なのではないかと。少なくとも、この夢が幼児期の記憶であることを梨緒が疑ったことはない。  翌朝。  遠回りして、あの道を避けながら、梨緒は学校に向かった。もう二度とあそこは通るまいと決めている。  けれども、その決意は、すでに遅かった。闇《やみ》は、彼女のすぐそばに、もう忍び寄っていたのだから。  次の日の朝から、梨緒は、視野の片隅をかすめる、奇妙な影に悩まされるようになった。  学校で授業を受けている時には、それは机の下にひそんでいるように思えた。  お昼どき。朝にコンビニで買ったパンを食べていたら、気がつくと、床に落ちていたはずのパン屑《くず》が消えていた。  まだ明るいうちに、学校から出る。急にふりむくと、電柱の陰や道端の側溝に、何か小さな生き物が隠れるのが見えた。がさごそ動く、大きなゴキブリのような影。でも、はっきり何かいるとわかったわけではない。本当に、視野の片隅にちらりと見えるだけなのだ。 『くすくす』というあの笑いも、耳の奥にこびりついて離れなかった。本当に聞こえているのか、それとも幻聴なのかも、もうわからない。  ほんの二度だけの体験で、自分が妄想にとらわれてしまったのか。それとも、本当に何かがつきまとっているのだろうか。今日はノートは、ほとんど真っ白だ。学校で何があったのかも記憶に残っていない。  午後遅くには、梨緒は、始終、自分のまわりを見回すようになっていた。時には、笑いを消すために、自分の耳をばんばんと叩《たた》くこともあった。  何人かのクラスメイトは、彼女の奇妙なふるまいに気がついていたかもしれないが、声をかけてくる者はいなかった。  梨緒は、常にそこそこの距離を保ってまわりの人々とつきあってきた。  小学生の頃《ころ》、児童劇団の推薦で、CMに出た時、梨緒は仲間はずれにされた。劣っていることと同じくらい、優れていることが、今は嫌われる時代なのだ。  声をかけてくるものがいないということは、つまり相談できる相手もいないということだ。  その日のレッスンでは、注意散漫だと、何度も叱《しか》られてしまった。  そして、さらに翌日。  放課後、不安をかかえたまま、梨緒は事務所に向かった。  その日は、ラジオの録音があった。一言程度の出演だが、梨緒には大きな仕事だ。  地下鉄に乗って、制服のままで出かけた。家に寄っている時間がなかったから。梨緒のランクでは、迎えになんて来てくれない。指定された場所に、一人で出かけるだけだ。  雑居ビルの一角にある、制作プロダクションの事務所。そのさらに片隅にある小さなスタジオでの録音だ。あるシミュレーションRPGの、ラジオドラマを放送している番組だ。同じ事務所の、何人かの同じランクの子たちと一緒に、そのゲームにちょっとした役で出た。  ビルに入ると、あまり人の気配がなかった。  誰もいないエレベーターに乗るのも、階段を使うのも、なんとなく恐ろしく躊躇《ちゅうちょ》していると、タイミングよく、藤堂さんが来てくれた。 「やあ、早かったね」  梨緒は腕時計を見た。おじけづいているあいだに、予定を三分ほどすぎている。  藤堂が、にこりと笑った。  まだ二人ほど、来ていなかった。今日、ここに集まるのは五人。彼女たちは、主人公のライバルの親衛隊である美少女戦隊の声を担当している。ライバルの名を声を揃《そろ》えて叫ぶのが、ゲーム中でもきめの台詞《せりふ》だった。コミカルなパロディ調のキャラクターで、シリアスに展開しているラジオドラマには、登場しない。  今回の、中心ゲストはそのライバル役を演じた、中堅どころの二枚目声優だ。彼は三十分ほど遅れてくるという話だった。  事務所は賑《にぎ》やかで、人が忙しく動いている。活気に満ちていて、ものを作る気概にあふれている。梨緒は、ここが好きだった。  けれど、とにかく乱雑にものが積み上げられたこの場所は、あまりにも何かが隠れる場所が多すぎる。  梨緒は、天井を見つめて、とにかく気にしないようにした。  藤堂さんが、ちらちらと梨緒を見ている。気にかけてくれているのが嬉《うれ》しかったが、調子に乗るなと自分に言い聞かせた。それが、藤堂さんの仕事なのだ。それに、声までかけてはくれない。担当ディレクターとの打ちあわせや、出入りする人々への挨拶《あいさつ》で忙しいのだ。  しばらく待っていると、みんながそろった。 「はしゃぐなよ、みんな」  いつものにこにこ笑顔で藤堂さんが言ったけれど、誰《だれ》もはしゃぐどころではなかった。  録音とはいえ、ラジオ番組でリラックスできるほど馴《な》れてはいない。  梨緒もそうだった。そして、目の前のなすべきことに集中しているあいだは、視野ぎりぎりで見え隠れしている影のことを、忘れていられた。  三畳ほどもない、狭いスタジオに、まとめて五人が詰めこまれた。本当なら椅子に座れるのだが、この人数ではその余裕はない。上からつりさげられたマイクをとりかこむように立っている。 「じゃあ、さくさくいっちゃおうか」  打ちあわせ、というほどのものはない。ディレクターではなく、藤堂さんのほうからおおまかな指示があって、すぐに本番だった。  パーソナリティの人気女性声優にうながされて、一人ずつ名前を言い、劇中に登場する台詞《せりふ》をそろって叫ぶ。それだけである。 「それでは……」  ガラスの向こうから、ミキサーが開始の合図、キューを送ってくる。 「レッドビューティー、ローズ! の、朝田《あさだ》悦実子《えみこ》です」 「ブルービューティー、マリン! の、生沢《いくさわ》亜屋《あや》です」  次が、梨緒の番だった。パーソナリティの先輩声優が、目で合図してくれる。小さく息を吸って、声を出した。 「イエロービューティ、カレリーナ! の……」  梨緒は、そこで台詞《せりふ》を喉《のど》に詰めてしまった。  机をはさんで、向かい側に座っている女性声優の肩ごしに、おかしなものが見えたからだ。  それは、緑色のとんがり帽子をかぶった老人の顔だった。小さい。人形くらいしかない。そして、ふしくれだった小さな手を、女性声優の肩に置いている。  とんがり帽子の、年老いた妖精《ようせい》と呼べたろうか。もしも、場所が、状況が違えば、可愛《かわい》いと感じたかもしれない。皺《しわ》に埋もれた顔に浮かんだ、悪意に満ちた笑いがなければ。  そいつは、すぐに消えたく背中にひっこんでしまったのだ。  梨緒が緊張して詰まったのだと思ったのか、女性声優は、はげますようにニコリと笑ってくれた。 「あ……あ……」  録音なのだから、少しくらい間が空いても編集してもらえる。だから、台詞を続けようとしたけれど、梨緒の喉は硬直してしまっていた。 「あ、はい」  外からの指示を伝えるヘッドホンを押さえて、パーソナリティがうなずいた。 「じゃぁ、もう一度、館林さんのところから録り直しましょうですって」  おだやかな声で、彼女は言った。 「しっかりしなきゃ。これがオーディションだったら、もう大減点だよ」  ピンク役を割り振られている、梨緒より四歳上の、けれど事務所入りはほぼ同期だった、竹位田《だけいだ》嘉代《かよ》という女の子が言った。慰めと聞こえるように演技してはいるが、悪意は透けている。  彼女は、梨緒が推薦されたオーディションを受けたがっていたのだ。けれど、選ばれなかった。竹位田嘉代は、梨緒にとってはいちばん、つきあいの長い先輩だった。梨緒が彼女よりも未熟なうちは、とても親切で、相談にも乗ってくれたし、いろんなことを教えてくれた。  でも、梨緒が、自分を追い越してゆこうとしていると感じた途端に、嘉代の態度は変わってしまった。  ねたみの含まれた、ねちっこい視線を、梨緒は、冷やかな瞳《ひとみ》で受けて立った。こんなところで、弱味は見せられない。  竹位田嘉代は、ふんと顎《あご》をそらした。レッドの朝田悦実子が、いかにもリーダーらしく、なだめに入ろうとする。ブルーの生沢亜屋がそこに茶々をいれ、結局、藤堂さんがおさめねばならなかった。  録音が再開されて、それから三度、梨緒は失敗した。台詞《せりふ》を口にしようとするたびに、あの顔がちらついたのだ。  やり直しに時間がかかって、やってきたライバル役の声優まで待たせてしまった。  自分のほうをちらちらと見る、少女たちの視線に、あのクスクスという嘲《あざ》けりの笑いが重なるようだった。 「なに、気にすることはないさ。明日の録《と》りのこともあって、緊張してるんだろ」  梨緒は、はっと藤堂さんを見上げた。しまった、という顔をしている。オーディションのデモテープ録りが明日だということは、秘密にしておくつもりで、梨緒にも伝えていなかったのに、つい口をすべらせてしまったのだろう。  下手に知っていると緊張するから、ぶっつけ本番がいいのだと、常日ごろからの藤堂さんの口癖だ。藤堂さんは、自分のおっちょこちょいさに苦笑しながら、梨緒に言った。 「緊張してるのは、僕のほうだったみたい。ははは」  そうではないのだと言いかけて、梨緒は目を伏せて、静かにうなずいた。彼女たちに軽蔑《けいべつ》の視線を向けられるくらいならいい。藤堂さんに、奇異の目で見られるのは嫌だ。 「あたし……ごめんなさい」  収録の後、みんなにお茶をおごると藤堂さんは言ってくれたけれども、梨緒は辞退した。 「練習はそこそこにして、今日はゆっくり休みなさい」  街へ歩み出てからも、人ごみの足もとを縫って、何か小さな影がついてきているような気がして、しょうがなかった。  視野の片隅に何かが見える。立ち止まって急にふりむくと、そこには何もいない。ぶつかりそうになった人に、睨《にら》まれたり舌うちをされながら、梨緒はとぼとぼと家路についた。  電車をおりると、もうすっかり日が暮れていた。  大回りして帰るあいだ、梨緒は小さな声で、明日、録音するはずのエンディングを口ずさみ続けていた。  歌に集中していると、夜の闇《やみ》が澱《よど》んでいても気にならなかった。静かで、あやしいもののうごめく気配も感じない。  笑いを聞くことも、死んだ猫に出くわすこともなく、家に帰りつくことができた。  今日もまた、母はTVを見ていた。いつも母は、梨緒が帰ると居間にいてTVを見ている。必ずだ。洗濯をしていたことも、掃除をしていたことも、食事をしていたこともない。  玄関からすぐの居間にいて、そしてじっとTVの画面を見つめている。  一日中そうしているわけではない。近所の人たちからは、働き者で美人のお母さんは、いつも羨《うらや》ましがられている。家にはいつも埃《ほこり》ひとつ落ちてはいないのだ。 「お母さん?」  夕食の洗いものを終えて、居間に戻った時も、母は同じ姿勢でTVの画面を見続けていた。 「明日も、遅くなると思うから。今度、もしかしたらCDを出させてもらえるかもしれないの。期待しててね」  梨緒は、精一杯明るい声でそう言った。不安のことはうちあけない。  母は、いつも何かに怯《おび》えているのではないかと思うことがある。だから、逃避のために昼間は働き続けて、夜はなんでもいいからTVに没頭するんではないかと、梨緒は感じたことがあるのだ。  自分の幻想かもしれないとも思う。母が怯える理由を梨緒はいくつも想像した。その空想は、いつも、梨緒によって救われた母が、彼女を賛嘆の瞳で見るところで終わる。 「それでね、明日はデモテープの録音があるから、遅くなるの」  母の返事を待って、梨緒は、しばらく立っていた。一分ばかりすぎて、TVがCMになる。  母は、ちらりと梨緒を見て、うなずいた。  升紬は、首をぶんと音がするほどいきおいよく縦にふって、母に応えた。母は、もう彼女を見ていなかったけれど。  その夜、梨緒は、またあの夢を見た。    4 「お前は、わしたちのもの……」  次の日は土曜日だった。学校は午前中で終わり、梨緒は不安を抱いて、デモテープの収録に向かった。  その日も、家を出た瞬間から、あれが見えた。見ようとすると見えず、目をそらすとあらわれる影。  梨緒は、無視することに決めた。ただ、デモテープの録音を、昨日のように邪魔されるのじゃないかということだけが不安だ。  収録は、ボイスレッスンを受けている、作曲家の自宅で行なわれることになっていた。この歌は彼の作品だったのだ。  藤堂さんに連れられて、到着し、歌いはじめる前、不安は最高潮に達した。  どこからか、小さなしわがれた顔がいきなり突き出されるのではないか、あの細い指が掴《つか》みかかってくるのではないかと、そんな想像に苛《さいな》まれて、梨緒は膝《ひざ》の裏から背中へ、ぞわぞわと虫が這《は》いあがってくるような感触に襲われた。  最初の一声が出た瞬間、梨緒は、歌以外のことを忘れた。  すべては杞憂《きゆう》に終わった。歌っているあいだ、梨緒は一度も怪しい影を見なかったのだ。ピアノの足もとにも、録音機材の隙間《すきま》にも、動くものはいなかった。  一度、小さく悲鳴をあげてしまったのは、ゴキブリを見たときだけだった。居あわせたみんな、作曲家の先生や、そのアシスタントは、みんな笑った。藤堂さんだけは、梨緒以上のゴキブリ嫌いで、彼女より大きな悲鳴をあげていたが。  何度か練習した後、2テイク収録して、終わった。 「いやあ、これならいけるよ。うん」  藤堂さんはにこにこしてうなずいた。作曲家のほうは、むっつりとしていた。文句は言わないが、褒《ほ》めもしなかった。 「まあ、プロデューサーやディレクターの意見も聞いてみてからだけど、安心していいとボクは思うよ」  ファミリーレストランで、藤堂さんにケーキセットを御馳走《ごちそう》になり、収録は終わった。  そのファミリーレストランで、またあの影が見えはじめた。ウェイトレスの足もとを走り抜けたり、外に出て藤堂さんが止めたタクシーをパンクさせたりしたのだ。  だが、梨緒は、不思議と恐怖を覚えなかった。  いちばん大切な録音を無事こなせたことが、しかも、これまででいちばんいい出来で歌えたことが、彼女に自信を持たせていたのだ。  ウェイトレスにもタクシーの運転手にも、緑の服を着た小さな影は、見えていないようだった。けれど、現実に人はころび、タイヤは切り裂かれている。影は実在しているのだ。  梨緒の妄想ではない。けれど、彼らは、ちょっとしたいたずらをする程度の存在でしかないのだと、梨緒は思った。猫殺しのことだけが、少しひっかかってはいたが。  家に帰りつく頃《ころ》、怯《おび》えてきょろきょろすることもなくなっていた。そうなると、影のほうも逃げなくなっている。ずっと視野の端にとどまっているのだ。  梨緒は、嫌なことを思い出してしまった。いじめっ子たちのことだ。  梨緒が、すぐに泣き出していたうちは、少しちょっかいをかけると飽きてしまった。  梨緒が、簡単にはくじけなくなると、いじめっ子たちのやり口はエスカレートし、いつまでもつきまとうようになったのだ。 「ただいま」  そう言った梨緒は、嬉《うれ》しい驚きに襲われた。なぜなら、ぱたぱたとスリッパの音がして、母が出迎えにあらわれたからだ。  母の美しいカーブを描いた眉《まゆ》は歪《ゆが》み、眉間《みけん》に深い皺《しわ》が刻まれている。  そんな表情でも、母の瞳《ひとみ》に久しぶりに映る自分を見て、梨緒はどうしようもなく喜んでしまってもいた。 「あなた、もう十六になったの?」  母は、いきなりそう訊《たず》ねた。彼女の手には、一通のダイレクトメールが握られている。くしゃくしゃになって、おしつぶされていた。 「う、うん。えっと、十一日が誕生日だったじゃない」  涙をこらえて、できるかぎり何気なく、梨緒は答えた。父からは、誕生祝いが送られてきていた。だから、まさか母がそのことに気づいていないとは、思いもしなかったのだ。 「ああ、ごめんなさい。わたし……あなたがいくつになったのかを」  母は顔をそらした。その顔に、絶望的なほどの恐怖が浮かんでいる。 「知りたくなかった。知るのが怖かったのよ」  母は、力なくそう言うと、がっくりと肩を落とした。ぽとりと、封筒とその中に入っていたチラシが落ちる。十六歳のあなたへ、というコピーの、化粧品か何かの案内らしかった。 「ど、どうしたの、お母さん?」  梨緒は、驚いてしまって、ただそう問いかけるのが精一杯だった。母が、こんなにか細く見えたのは、はじめてだった。  手を伸ばして支えてあげたかったのだけれど、拒絶されるのが怖い。 「あなたが、十六になったら……。何か……何か伝えなければならないことがあったはずなの」  母は、頭痛でもこらえているかのように、眉間にてのひらのつけねを押し当てた。 「これを見て、急に思い出したの。何か、あなたが十六歳になると、伝えなければならないことがあったはずなのよ。あたしは、それを忘れようとしていた。覚えていちゃいけないこと」  話すうちに、母の顔から表情が消えてゆく。何かに押さえこまれるように。  がたんと大きくワーゲンが揺れて、梨緒は舌を噛《か》みそうになった。  彼女の、長い話がとぎれる。もう、夜も遅い。車はどこともしれない裏道を走っていた。どんなに荒れた道でも揺れなかったワーゲンが、なぜか何もない場所で揺らいだ。 「少し、休みたい?」  未亜子が訊ねてくれる。  梨緒は、首を左右にふって、言葉を続けた。 「なんだったのかしら……まあ、いいわ。そのうち、思い出すでしょう。そういえば、あなた、今夜は遅いんじゃなかったの?」  母は、梨緒の名を、久しく呼んだことがない。 「それが、その……」 「いいわ。ちょっと買い物に行ってくる。もう、冷蔵庫の中身が何もないんだもの」  母が、前に出てくる。梨緒は、あわてて体を左に避けた。 「なにしているの。早くあがりなさい。御飯まで、勉強でもしていればいいわ」  母は、梨緒を見ずにそう言うと、サンダルをつっかけて外に出た。  飾り気のない服装に、化粧もしていない顔だけれど、母は、近所の主婦たちの誰《だれ》よりも綺麗《きれい》だと、梨緒は思った。 「いってらっしゃい」  梨緒は、家にあがると、二階にある自分の部屋に向かった。高揚した気分は、すっかり消えていた。  鞄《かばん》をベッドの上にほうりだし、梨緒はトレーナーの上下に着替えた。仕事の時以外、梨緒はあまり身のまわりにかまわない。父が、似たもの母子だと、苦笑したことがある。それ以来、梨緒はますます、家ではラフなファッションで通すようになった。  鞄から、雑誌を取り出す。今日、事務所に寄った時に、藤堂さんがくれたゲーム雑誌だった。ぱらぱらと雑誌をめくってみたが、中身はまるで頭に入ってこない。  ゲーム機は、はじめてゲーム音声の仕事をしたときに、父に買ってもらったのを持っているきりだ。二、三度しか、電源を入れたことはない。音声とアニメーションが売りのその機種は、最近、新しいソフトがほとんど出ない。今度の仕事は、別のシェア最大の機種のソフトだ。  もしも、仕事が決まったなら、買わなくちゃいけないだろうなと、ヒット中の格闘ゲームの攻略記事をぼんやりながめながら、梨緒は考えた。  雑誌を閉じて、何か音楽でも聞こうと、MDコンポに手を伸ばした時だ。 「……くすくすくす」  あの笑いが聞こえた。 「誰? どこにいるの!」  我が家で聞こえたのははじめてだ。梨緒は険しい声で問いかけた。  あたりを見回す。飾ってあったマスコットが、ずたずたにされているのが見えた。ほんの一瞬、目を離しただけなのに。  猫の死にざまを、また思い浮かべてしまった。そして、コンビニの店員の言葉。 『ナイフじゃなさそうだけど……』  机の上に置いてあったカッターナイフを取りあげる。ちちち、と音を立てて、刃を伸ばした。 「そろそろ、いいんじゃないかのう」  ベッドの下から、おかしな声が聞こえた。あの奇妙な音だったようにも、はっきりした日本語のようにも思えた。だが、そんなことはもうどうでもいい。  のぞきこむ。  影が澱《よど》んでいるだけだ。 「いやあ、もう少し、熟成させよう」  背後から?……何もいない。 「酒と同じさぁ。辛抱、辛抱」  今度ははっきり、机の下からだ。  けれど、そこにも、積み上げられたCDケースという、いつもそこにあるもの以外、何も見当たらなかった。  梨緒が、CDケースをどけて奥を見てみようと、おそるおそる手をさしのべたとき。  電話が鳴った。  彼女の部屋にも、子機が置かれている。けれど、ここで話をすると、盗み聴きされるような気がして、梨緒は下におりた。カッターナイフは、刃をおさめてポケットにつっこんだ。 「もしもし?」  梨緒は名乗らなかった。用心のために、そうしろと父から言われている。 「館林さんのお宅でしょうか。わたくし、オフィス・ショウタイムの……」 「あ、藤堂さんですか。私です。今日は、お疲れさまでした」  どんな気分でも、仕事になれば、こんなにはきはきした明るい声が出せるんだ。梨緒は、自分に満足感を覚えた。それ以上に、微妙にはずんでいる自分を梨緒は打ち消した。 「梨緒ちゃん、いけそうだよ」  藤堂の声は、梨緒のように微妙にではなく、明白にはずんでいた。電話を通すと、藤堂の声は、歳相応の二十代のものに聞こえた。あの福々しい顔をまのあたりにすると、つい、おじさん扱いしてしまうのだけれど。 「ええと、あの、それって」  梨緒は、希望がふくらんでくるのを感じた。けれど、調子に乗ってはいけないと、自分をいましめる。他の事務所や、同じ事務所の他の子たちも、デモテープを提出しているはずなのだ。全員が出そろってから、会議で検討するのだと、藤堂さんは以前に言っていた。 「今日ね、たまたま、あのゲームのプロデューサーが、うちを訪《たず》ねてきたんだわ。で、梨緒ちゃんのテープを聞いて、写真も見て、すごく気に入ってくれたみたいなんだ」  やった。やったのだ。梨緒は、受話器を握る手にぎゅっと力をこめた。 「あの、でも、まだ本決まりっていうわけじゃないんですよね」  梨緒は、押さえた声で言った。 「あ、ああ。それはもちろんそうで、期待しすぎてもらっても困るんだけど」  藤堂は、鼻白んだようすで答えた。 「プロデューサーさんは、週明け早々に、スタッフに聞かせるってテープ持っていかれたから。月曜日は、家で連絡待ちしでてくれるかな」  藤堂は、冷静な声に戻って、そう指示した。 「はい。わかりました。学校が終わったら、まっすぐ家に戻って、ちゃんと待ってます」  極力冷静に聞こえるようにと、梨緒はそう答えた。少し、力がこもってしまったが。 「ああ、いい子だ。そうしておいてくれ」  藤堂の声が、どうして、また急に笑みを含んだものになったのか、梨緒にはわからなかった。けれど、気にはならない。  とうとう、実績というやつをあげたのだ。まったく知らない人が、客観的に、梨緒を評価してくれた。  このことを告げたら、お母さんもあたしを褒《ほ》めてくれるだろうか。跳ね回りたい気持ちのまま、梨緒は切れてしまった電話をかかえて、しばらく立ち尽くしていた。 「くすくすくす」  心が冷えた。高まっていた気持ちが、氷点下に凍りついた。ひょっとしたら、体温まで、二度くらいはさがったかもしれない。  あの笑いだ。  梨緒が手にしている電話から、その笑いは洩《も》れていた。一人のものではない。複数の笑いだ。重なりあい、くっきりした声で笑っている。 「もういいんじゃないか」  しわがれた、老人の声だった。 「そうだね。いいと思うよ」  甲高い、老人とも子供ともつかない声。 「思い上がらせちゃいかんよ」  重厚な、壮年の声。 「まったくだ。若いものには、人生の厳しさを思いしらせてやらんとな。お前は、わしらのものなんだから、勝手なことをしてはいかんのだ」  梨緒は、がしゃんと受話器を叩《たた》きつけた。壊れそうないきおいで。 「お前は、わしらのものなんだ」  電話を切っても、声は聞こえた。今度は、梨緒の足もとからだった。  彼女は、あわてて下を見た。  何もない。ただ、つけたばかりの明かりに照らされて、梨緒の影が伸びているばかりだ。 「お前はな、売り渡されたんだよ、二十五年も前に、わしらへな」  かさこそという音がした。ふりむくと、さっきのくしゃくしゃになったダイレクトメールがころがっていて、他には何も動くものなどなかった。 「お前の母親は、自分の欲望のために、欲しいものを得るために、お前をわしらに売ったのだ」  声は、耳もとで聞こえた。確かに、間違いなく、耳もとで囁《ささや》かれたのだ。  その証拠に、悪臭がつんと鼻をついた。何か、細くて鋭く尖《とが》ったものが、トレーナーの布地を貫いて、梨緒の肩に喰いこんでいる。 「あ、ああ……ああああ」  くちびるがわなないた。本当に恐ろしい時は、かえって悲鳴など出ないのかもしれない。  彼女の視界の右端に、ちらちら逃げる影ではなく、くっきりと見えていた。  緑の帽子をかぶり、白い顎髭《あごひげ》を生やした、小さな小さな老人の顔だ。  昔、絵本で見た妖精《ようせい》に似ている。けれど、妖精は、瞳《ひとみ》から口もとから全体から、これほど邪意をあふれさせてなどいない。 「お前の母親が、わしらにお前を売った。だから、お前はわしらのものだ」  小さな爺《じい》さんは、腐った肉の匂《にお》いがする息を吐きながら言った。 「嘘《うそ》よ。お母さんは、お母さんは、そんなことしないっ」  梨緒は、ポケットに手をさしこんだ。カッターナイフを肩の上に乗っている邪妖精に突き立てようとした。 「けけけ」  笑いだけを肩の上に残し、邪妖精は彼女の背中にひっこんだ。 「あつっ」  いきおい余って、梨緒はカッターの先端で、自分を傷つけてしまった。  先端が赤く染まったままのカッターナイフを両手で握り、腰の高さにかまえて、梨緒は、体ごとくるくると回りながら、あたりを見た。彼女の動きにあわせて逃げているのか、邪妖精たちの姿は決して視界の真ん中にとらえられることはなかった。 「何をしているの!」  どさっという音とともに、悲鳴じみた声が聞こえた。  母が、帰ってきていたのだ。足もとに、スーパーの白いビニール袋が落ちている。彼女は何度も何度もまばたきを繰り返していた。どう対処すればいいのか、わからないようすだ。  目を開いた時、彼女の瞳はうつろで、梨緒を無視したいと感じているようだった。しかし、目を閉じているあいだ、母は梨緒にどう救いの手をさしだせばいいのかを考えているように思える。  「お母さん、違うのよ。これは……そうじゃないのよ」  梨緒は、あわててカッターナイフをほうりだした。言葉を探す。化け物が出たなんて言っても信じてはもらえないだろう。なら、どう説明すれば母に心配をかけずに……嫌われずにすませることができるのか。 「こら、傷をつけるな。お前はわしらのもんじゃ。勝手なことはするな」  隣の部屋に通じる戸口、開けっ放しになっていたそこから、半身をのりだして、あの緑の帽子の小老人が言った。 「ひっ」  それを見た母の喉《のど》から、小さな悲鳴がもれる。  梨緒は、邪妖精と母のあいだに割りこむように移動した。母を救おうとしたのか、すがって邪妖精から逃げようとしてなのかは、自分でもわからなかったが。  ばきりと音がして、天井の板が割られた。  びくんとして、梨緒が後ずさりする。  穴から、さかさまに小さな尖《とが》った頭がつきだされた。少年のような容貌《ようぼう》だが、よく見ればしわだらけだ。やっぱり、緑の服を着ている。胸までしか見えないが。 「逃げるなよ。オレたちゃ、あんたの花婿《はなむこ》なんだぜ。母親も認めた。なあ?」  そいつは、梨緒に向けてにたにた笑った。 「何を言うとるんじゃ。夕飯にするんじゃろ。わしゃ、若い女の肉が好きなんじゃ」  くけけけと笑う声は階段の上から聞こえた。そいつは、梨緒が階段に視線を向けると同時に二階にわだかまる暗闇《くらやみ》に姿を隠してしまう。動いた拍子に、ばさりと緑のとんがり帽子が落ちた。鋭い爪《つめ》の生えた手が、それを素速く拾う。また影の中に消えた。 「あ、あなたたちは……、ああ、なんで、どうして忘れてたの……」  母の目が、まじまじと見開かれた。緑の服の、邪悪な妖精たちを彼女も見たのだ。  そして梨緒の母親の顔に、さまざまな表情が立て続けに浮かんだ。  はじめは戸惑いだった。それと同時に恐怖もだ。  しかし、すぐにいぶかしさがあらわれた。それは自分に向けてのものだった。何かを思いだそうとするかのような、苦しげな顔つき。そして、はっと記憶を取り戻したその時の苦悩の表情は、恐怖は、後悔は、死刑を宣告された無実の者のようであり釈放された有罪犯のようでもあった。 「わしらと契約した人間は、たいていそのことを忘れよる」 「つらいんじゃろな、覚えてるのが」 「怖くて耐えきれんから、心から消しちまうのさ」 「すっかり忘れてもらってたほうが、こっちも楽しみだって」  声が聞こえる。影から、闇から、右、左、背中。決して正面からではなく、こちらから見えない場所からだけ。  そして、そのたびに、梨緒の母はさいなまれ傷ついていった。傷ついたのは、けれど彼女だけではなく、母がかぶっていた仮面もだ。ひび割れて、その仮面は落ちた。 「梨緒っ、梨緒っ、あなたは逃げなさいっ!!」  母の叫びは、血の色に染まっていた。  梨緒は、呼びかけられてもしばらく動けなかった。母に、その名を呼ばれたのは、いったい何年ぶりだろう。 「行きなさい、梨緒! ワーゲンよ、お祖父《じい》ちゃんのワーゲンがあれば。あの時も助けてくれた。こいつらをやっつけてくれるわ!」  母は、サンダルのままで玄関からかけあがり、梨緒の腕を掴《つか》んでひきずった。梨緒は、突然のことによろけた。ほんの一|刹那《せつな》、母に抱かれるような姿勢になる。 「いたっ」  だが、母が悲鳴をあげて、そのぬくもりを味わっている余裕はなくなってしまった。  緑色のものが、彼女たちの足もとを駆け抜けていった。母のくるぶしから血が流れ出ている。 「お母さん! て、手当て。手当てしないと」  おろおろとしてかがみこもうとする梨緒を、母は思い切り突き飛ばした。梨緒は、玄関の、並べてある靴の上にころげ落ちた。うつぶせになって、母の姿が見えない。声だけが聞こえる。 「ごめんなさい、梨緒。あたしは、あたしは死にたくなくて、それであなたを……。まだ生まれていなくて。だから、可愛《かわい》がってあげられなかった。そう、忘れていたはずなのに、知ってたの。なくすものなら、最初からないことにしておけばって。それなのに、あなたは可愛くて……。いい、お祖父ちゃんのワーゲンよ……っ! 助けてっ……!」  ああ、自分たちは母子だと、梨緒は思った。ものの考え方がよく似ているもの。だから、言葉の意味もたどれるはずだ。ワーゲンがあれは肋かるのか? 自分を助けろと言っているのか。死にたくなくてというのは、いつのことなのだろう。 「お母さん? お母さん、どういうことなの!?」  やはり無理だ。混乱してしまった梨緒は、慌てて上半身を起こした。  母は、もう答えてくれない。  そのとき、すでに母にはいくつもの緑色の影がびっしりとたかっていたのだ。  たかるという、虫に使う表現が、ぴったりしていた。なぜなら、そいつらは上半身こそ人間に似ていたが、下半身は虫そのものだったからだ。  黒光りする黒い殻におおわれ、ぶっくらとふくらんだその部分からは、細いぎざぎざした六本の脚が伸びている。蟻《あり》だ。蟻の体と、緑の服を着た妖精《ようせい》がつぎはぎされている。  そいつらが、母の全身に、口もとからにょっきり飛び出した黒い牙《きば》をつきたてているのだ。  梨緒は、迷わなかった。母に向かって突き進み、緑の服の怪物どもをひきはがそうとした。  彼女の手が届くより先に、怪物たちがばらばらと飛び散り、逃げ出した。母の体が、ぐらりと揺れて倒れる。 「お母さんっっっ!!」  梨緒は、母の体に飛びついた。抱き起こした腕が、べっとりと血に染まる。完全に意識を失っていた。全身に細かい傷がある。まるでかじりとられたような傷だ。呼吸は浅い。 「救急車、救急車、呼ばなきゃ!」  電話を使うのは怖かったけれど、今はそんなことを言っている場合ではなかった。  しかし、受話器を耳にあてても、発信音は聞こえてこなかった。不通なのだ。怪物たちのしわざなのか、それともどうなっているのか。  母を残していくのは忍びなかった。けれど、いかなければ、母は確実に死ぬ。  梨緒は外に飛び出した。  いつのまにか雨がふりだしている。傘を取りに戻っている心の余裕はなかった。 『お医者さん。香川先生のところは内科だし。外科じゃないといけないのかな……』  心あたりの、近くの病院めがけて走りだす。真っ暗な夜の雨の中を、裸足《はだし》の美少女が駆けてゆく。母の血は、雨がどんどんと洗い流してしまっていた。 「どうしたの? あれ、館林さん? 館林さん……だったよね、あたしだよ」  声をかけてくれたのは、あのコンビニの店員だった。彼女の顔に浮かんでいた笑みが、ふりかえった梨緒の燃える目を見て、いぶかしげなものに変わった。    5 「お父さん習お母さんが……」 「そう、ミケちゃんの紹介で、霧香を知ったのね」  三池《みいけ》陽子《ようこ》。あのコンビニ店員は、そんな名前だった。  梨緒に向かって『友達にはミケって呼ばれてるの。あちこちでバイトして、ふらふらと日々をすごしている、謎《なぞ》の美女よ』と自己紹介してくれた。 「知りあいなんですか……あ、あのっ」  未亜子を見た梨緒は、恐怖に目を見開いた。美女は、ハンドルから両手を離して、梨緒のほうを見ていたのだ。 「大丈夫よ」  未亜子はあっさりとそう言ったが、納得できるわけはない。ワーゲンは、止まっていもわけではないのだ。荒野の一本道というわけでもない。窓の外には街の明かりがあり、追い越してゆく車も、対向車もいる。  静かな闇《やみ》の中で、光が流れてゆく。 「あの、お願いですから」  未亜子は、小さく肩をすくめると、ハンドルを握った。  車の運転をしない梨緒にはわからないことだったが、未亜子は、さっきからまったく操作をしていないのだ。 「あの、三池さんですけど」 「友達というほどではないけれど、知人ですませるには、一緒に死線をくぐりすぎてるかしら」  未亜子は、うなずいた。梨緒は死線という言葉に、ぎょっとした顔つきになったが、説明は、それだけだった。  三池陽子もまた、未亜子たち <うさぎの穴> に集う者たちと同じ種類の存在——妖怪《ようかい》の一人だ。しかし、未亜子はそれを説明するつもりはない。 「それで?」  何が、『それで』なのか、梨緒は戸惑った。未亜子が、話の続きを求めていることに気がついたのは、三秒ほどすぎてからだ。  ここまでの話を、この美女はまったぐ表情を変えることなく聞いてくれた。反応がないのは、疑っているからではなく、集中しているからだというのは、目の光を見ていればわかった。 「お母さんが倒れたから、お医者さんを呼びに行こうとしているって、三池さんには言いました。お化けたちのことは、黙ってました。おかしな女の子だと思われて時間をとられるのは嫌だったから……」  梨緒は、ふたたび、話しはじめた。二日前の出来事を。  ミケは、『あたしが携帯電話を持っているから』と言って、一一九番に知らせてくれた。自分の家に寄って、靴を借りていけというミケに梨緒は首を左右にふった。 『どうして、こういう時にほっとけないのかしらねぇ』  ぼやきながらついてきてくれたミケと一緒に、家に戻った時、すでに救急車は到着していた。そして、救急隊員たちは、怒りを覚えていた。  なぜなら、そこには彼らの助けを求めている者は誰もいなかったからだ。  梨緒の家は、ただからっぽで、母の姿はなくなっていた。  戻ってきた梨緒は、いたずらじゃないと必死で救急隊員たちにすがった。もしかしたら、息をふきかえして、どこかにふらふらと出ていってしまったんじゃないかと、そのあたりを探してもらうこともした。  しかし、どこにも母は見あたらなかった。床にほんのわずかな血痕《けっこん》があったけれど、それは、むしろ梨緒の肩口の傷に注意をひかせることになった。  救急隊員たちは、あくまで母を探そうとする梨緒のほうを、治療すべき対象と判断したのだ。梨緒の傷は、本人が考えているよりは深いものだったので、彼らはその決断を実行に移した。  梨緒は、なかば強制的に病院に収容されてしまった。手当てされながらも、梨緒は、お母さんが危ないのだと叫び続けた。助けてあげてと、頼み続けた。  ただ、あの緑の服の小さな怪物たちのことは黙っていた。信じてもらえるはずもない。余計なことを口にすれば、かえって話を聞いてもらえなくなるだけだ。  しかし、話さなかった本当の理由は、誰よりも、梨緒自身がこの出来事を信じたくなかったからでもあった。異界のものの存在をではない。  自分が、売り渡されたと告げたあの言葉を梨緒は信じたくなかったのだ。  母を見つけたいのは、何より、そのことを問い質してみたかったからだ。答えを聞くのが怖くはあったけれど、確かめないのはもっと恐ろしい。  彼女は、叫べば叫ぶほど、人々の自分を見る目が冷たくなっていくのに気がついた。  だから、感情を押さえた。何か混乱していたらしいと、白々しく認めた。なるべく冷静に、母の行方不明を伝えようとした。  警察もやってきて、どうして傷ついたのかを訊《たず》ねた。梨緒は、いっそ自分が母を刺したのだと言ってみようかと思った。そうすれば警察も真剣に捜してくれるかもしれない。  けれど、警察は、おざなりに事情を聞いただけだった。失踪《しっそう》届けを出したいという梨緒に、一晩ようすを見てから、父親と相談するように告げた。  警察が帰った後、梨緒は、寝かされていたベッドから飛び出した。そうだ。どうして忘れていたのか。こんな時には、父だ。仕事が忙しいと家にほとんど帰らない父だったが、梨緒の日曜参観にだけは来てくれた。  梨緒は、看護婦からテレホンカードを借りた。だが、プッシュホンのボタンにかかった指は、そこで止まってしまった。梨緒は、父の勤務先の電話番号を知らなかったのだ……。 「それで、どうしたの?」  未亜子は訊ねた。  梨緒の言葉が、途切れてしまったからだ。  少女は、口を開きかけて、何度となく躊躇《ちゅうちょ》した。未亜子は、黙って待ち続けた。梨緒の話には、何度かこんな沈黙があったけれど、今回のは特に長い。  車は、二十三区を出た。左右には、空き地や、休耕中の田んぼが広がっている。渋谷から一時間あまりで、こんなところに出るのだ。東京も、広いようで狭い。 「ええ。あそこに向かっていいと思うわ」  未亜子が独り言のように呟《つぶや》いた。梨緒が、顔をあげる。梨緒は、未亜子にその言葉の意味を訊ねることもなく、自分の話を再開した。 「三池さんに頼んで、家から鞄《かばん》と財布をとってきてもらいました……」  公衆電話の前で凍りついていた梨緒の肩を叩《たた》いたのは、ミケだった。救急車に乗せられるときほうりだされてしまった彼女が、連れて行かれた病院をつきとめて見舞いに来てくれたのだ。 「あんたんち、誰《だれ》もいないままで、ほうりっぱなしの開けっぱなしよ。まずいんじゃない?」  梨緒は、鍵《かぎ》を渡して、家を閉めてくれるよう頼んだ。ついでに、とってきて欲しいものがあるとも。 「手帳の住所録に、お父さんの携帯の番号、書いてあったから……」  ミケは、手伝うかわりに、冷蔵庫の中身を御馳走《ごちそう》になってもいいかと訊ねた。どうも、勝手に覗《のぞ》かれたようだったけれど、梨緒はそんなことは気にしなかった。  ミケは、冷蔵庫の中にも、風呂場の浴槽にもお母さんはいなかったよと断言したのだ。  本当なら自分で戻りたかったけれど、まだ看護婦の目がある。  三十分ほどで、彼女は戻ってきた。  母が落としたスーパーの袋はそのままになっていたらしい。その中に入っていたという財布を、戻ってきたミケは渡してくれた。  五万円ばかりの中身には、絶対に手をつけていないと、ミケは誓った。彼女の誓いは、虚空に向けてのものになったが。  梨緒は、すでに電話に飛びついていた。  どう説明すればいいのかわからなかったので、とにかくお母さんがいなくなったことにした。一日くらいで騒ぐなと言われそうだと思って、一昨日から帰らないと嘘《うそ》をついた。  冷静に考えれば、稚拙《ちせつ》な作り話だが、梨緒はとにかく必死だったのだ。  しかし、戻ってきた言葉は予想外のものだった。 『冷静に聞いてくれ、梨緒』  そう父は言った。苦い、憎悪を含んだ声だった。もちろん、それは、梨緒に向けられた感情ではなかったのだけれど、やはり少女の胸を傷つけずにはいなかった。 『母さんと父さんは、お前が高校を卒業したら離婚するつもりだった』  がつんと頭を殴られたようなショック。梨緒は、反問することすらできなかった。 『他に好きな人がいるわけじゃない、ただお互いの心が離れすぎただけだ……そう思っていたんだがな』  そんなこと、子供に言わないで欲しい。梨緒は思った。大人の想いを押しつけられても困る。 『梨緒も、もう十六だ。結婚だってできる歳なんだ。わかってくれるよな』  そんな勝手な理屈なんて、あるもんか。  梨緒はにじんできた涙をぐっとのみこんだ。反論したところで、父はゆるがないだろう。  日曜参観には必ず来てくれた、運動会にも来てくれた、でも一度だめだと言ったことには、いくら梨緒がだだをこねてもうなずいてくれたことのない父だった。 『しかし、いきなりお前をほうりだしていくなんてな……。あ、いや、心配はいらん。父さんがついてるからな。お前には、父さんがいるんだ』  父さんには、お前がいるんだ。そう、言っているように、梨緒には聞こえた。  梨緒は、父の気持ちが、そんな風に透けてみえる自分に驚いた。  あたしを、お母さんのかわりにしないで欲しい。親は、子供を甘やかしてくれるもので、子供にすがるものじゃないはずだと、梨緒は怒りをおぼえた。  そういう父だから、母も……。 『梨緒、明日になったら、すぐに父さんのところに来るんだ。いいね。父さんの大阪のマンションは知ってるだろう。春休みに遊びに来た時に……』  それから、父が何を話したのか覚えていない。ただ、これ以上助けを求めても無駄《むだ》なのだということだけは、はっきりとわかった。  梨緒は、フックに受話器をかけた。  ゆっくりとふりむく。自動販売機のコーヒーを——梨緒のおごりで——すすっていたミケと目があった。こちらを、ずっと見ていたらしい。会話も聴かれていたろうが、梨緒は気にしなかった。ミケのほうも、悪びれたようすはない。 「三池さん、何度も悪いんですけど、また取ってきてもらいたいものがあるんです」 「いいよ。ねえ、これってもしかして、あの猫殺しと関係あり?」  ミケの目が、病院の廊下の、蛍光灯の明かりを跳ね返して、三日月の色に輝いた。  梨緒は、こくりとうなずいた。彼女の顔には、決意の色が強く浮かんでいる。 「あたしの服を、持ってきてもらえませんか。動きやすいのを」 「もう面会時間は終わりなんだよね。ああ、大丈夫、今夜中になんとかしたげる。そういうのは、得意中の得意なんだ」  規則破りを面白がっているらしい笑みを残して、ミケはくるりとふりむいた。形のいい尻《しり》で、三毛猫模様の尻尾《しっぽ》が揺れている。  ふだんなら、面白いアクセサリーだと騒いだかもしれない。けれど、今の梨緒は、たとえそれが本物であったとしても、どうでもいい気分だった。 「抜け出す方法も、考えておいてあげるよ」  急にくるりとふりかえって、ミケは言った。  梨緒は、一瞬、あっけにとられたが、すぐに真剣な顔でうなずいた。今さら、彼女を相手にごまかしたところでしかたがない。  お母さんの言葉は、まだくっきりと、耳の奥に残っている。 『お祖父《じい》ちゃんのワーゲンを……』  心当たりはあった。亡くなった祖父が持っていた、古くて小さな車のことだろう。小学校にあがる前のことだけれど、かすかな記憶があった。  今はない。どこにいったのかわからないけれど、お母さんがああ言ったからには、なくしたわけではないのだろう。あれを見つけて、お母さんを助けよう。そうすれば、お母さんは、もう一度あたしを……。  梨緒は、また記憶の中に沈み、黙りこんでしまった。  彼女を、現実へ引き戻したのは、未亜子の質問だ。 「あなたのお母さんの、結婚前の名字は、なんというの?」 「え? ええと、なんだったっけ……それが、これと関係あるんですか?」  梨緒が反問した途端、ワーゲンが、クラクションを鳴らした。未亜子は、どこにも触れていないのに。 「……確か、保坂だったと思います」 「じゃあ、フルネームは保坂|梨絵子《りえこ》、ね」  梨緒は、ひゅっと息を吸いこんだ。未亜子に、母の名を告げただろうか。  いいや、言っていない。お母さんとしか、口にしていないはずだ。 「どうして、それを?」  梨緒は訊ねた。だが、未亜子はそれには直接答えず、正面を見つめ、独り言のように呟《つぶや》いた。 「二十五年前。あの時、彼女がそんなことをしていたなんて、ね。あなたは知っていたの?」  まばたきをするように、ヘッドライトが点滅した。  イエスの意味か、ノーの意味か。そう考えてから、梨緒はあわてた。これは、ただの車だ。それが意思表示したとでもいうのか? 梨緒は、急に気味悪くなった。いったい、この車はどうなっているのだろう。この人は、誰《だれ》なんだろう。  梨緒は、自分が、未亜子のことを名前の他にはなにも知らないことを、ようやく思い出した。未亜子の美しさに信頼を抱き、祖父のワーゲンが助けになるという母の言葉にすがって、ここまでやってきたのだけれど……。 「霧香が、 <うさぎの穴> のほうを、あなたに教えたはずだわ。ミケちゃんがからんでいるなら、 <海賊の名誉> 亭でもいいはずだもの」  未亜子が、梨緒を見た。彼女が言っていることを、梨緒は理解できなかった。表情から、未亜子もそれを察したらしい。 「 <海賊の名誉> 亭というのはね、 <うさぎの穴> と同様、わたしたちみたいな存在が集まって、連絡の拠点にしている場所。わたしたちは、生きのびるために独自のネットワークを作っているの。ミケちゃんは、本来、 <うさぎの穴> ではなくて <海賊の名誉> 亭のネットワークに籍を置いていることになっているのだけど」  未亜子はそう説明してくれたが、梨緒は、ますますわけがわからなくなっていた。未亜子のいう『わたしたちみたいな存在』とは、いったいなんのことなのか。  しかし、もの問いたげな目で見つめる梨緒に向かって、未亜子が返した答えは、二つ前の質問に対するものだった。 「もう、二十五年も前になるのね。あなたのお母さんが、ちょうど、今のあなたと同い年の時、わたしたちは、梨絵子さんを助けた……。いいえ、助けたのは彼ね」  そう言いながら、ぽんとハンドルを叩《たた》いた未亜子を、梨緒はまじまじと見つめた。  黒いドレスに身を包んだ彼女は、どう考えても三十歳以上だとは思えない。梨緒の母も若く見えるほうだったが、整形や化粧の助けを借りているとしても、未亜子が母よりも年上などとは信じられなかった。 「それにしても、あいつらが、生きていたなんてね。あなたが焼きつくしたはずじゃなかったのかしら」  未亜子が、鋭い視線を車内にぐるりと一周させる。  ボンネットが、ばたんと一度開いて閉じた。まるで、抗議をするように。  梨緒の背筋を、ぞっと冷気が走り抜けた。自分は、恐怖から逃れようとして、何に助けを求めてしまったのだろう。  ミケのいつも何かを面白がっているかのような笑みを思い出した。あの笑みの意味はなんだったんだろう。霧香という名の占い師の、死者ほども白い顔も脳裏に浮かんだ。彼女の、鏡のようにきらめく瞳《ひとみ》に映し出されていたものは、なんだったろう。  自分は、おとしいれられたのではないか。  そう思うと、もう今にもこのシートが自分をくるみこんで食べてしまうのではないかという気がしてきた。  梨緒は、右手を、ドアに伸ばした。しかし、ワーゲンは疾走し続けている。飛び出して、無事ですむとは思えない。けれど、それでも、この恐怖から逃れられるのなら。 「もう少し、お待ちなさい」  未亜子が、言った。 「このすぐ先よ。あなたのお母さんと、あなたがいう緑の服の怪物、ムリアンたちとがかかわりあったのは。そこで、できるかぎりの説明はしてあげるわ」 「ムリアン? それがあいつらの名前?」  梨緒は、動きを止めた。まだ逃げるわけにはいかない。 『お母さんを助けてないわ』  梨緒は、ごくりと唾《つば》を飲みこんだ。自分は、あの緑の服の怪物たちを、実在のものだと決めた。妄想なんかじゃないと、自分を信じているからこうしているのだ。  悪い怪物がいるのなら、自分で勝手に動く自動車や何年も若いままでいる美女がいたっていいじゃないか。そして、その人たちが自分の味方であっても。  梨緒は、あらためてワーゲンの助手席に座り直した。 「この二日間、緑の影は?」 「……見てません。でも、笑い声は」  そのかわり、たっぷり嫌な目にあった。平日の昼間に、ふらふら出歩いている美少女を守ってくれる者はなにもない。不良に取り囲まれて、車に押しこまれそうになった。いやみそうなオバサンに捕まって説教もされた。車に詳しい人をと、とにかく中古車売場で訊《たず》ねたら、援助交際をせまられた。  悪意と欲望をたっぷり見せられて、そのあいだ中、あのくすくすという笑いが聞こえていた。 「ああいう連中は、くじけた人間が好きなの。あなたが自分であきらめるまでのようすを見て、楽しもうとしてたのね」  未亜子のいう『ああいう連中』は、不良たちや援助交際をせまる中年男たちではない。  梨緒にもわかる。緑の邪悪な蟻妖精《ありようせい》、ムリアンのことだ。 「思いこみのままにしか動けない。哀しいこと」  未亜子は、ちらりとバックミラーに視線を走らせた。ワーゲンは、長い影をひきずりながら走っている。 「決着は、やっぱりあそこでつけましょう。戦力が必要ね」  未亜子は、携帯電話をとりだした。ナンバーを押して、しばらく耳に押しあてた後で、顔をしかめた。 「……電波の圏外。とんでもないわね。後で文句を言うだろうと思って、気を遣《つか》ってあげてるのに、勝手に出かけてるなんてどういうつもりかしら」  未亜子は、携帯電話をしばらく睨《にら》みつけていた。 「ビールの自動販売機の前で止めてちょうだい。梨緒さんに説明するにも、彼を呼べばちょうどいいわ」  未亜子がそう指示をしたとき、梨緒はまた、きょとんとすることしかできなかった。    6 「梨絵子さんは、あんたを売った」  携帯電話が、鳴った。 「え……こんなとこまで、電波、届くんですか。すごいですね、どこの製品です?」  助手の阿久津《あくつ》裕二《ゆうじ》が、目を丸く見開いて八環を見た。  裕二は二十代、八環は四十そこそこに見える。  彼らは、カメラマンだった。山を専門にしている。今回は、あるグラビアの企画で、夜明けの森を撮るためにキャンプに来ている。  八環がメインで、阿久津はその助手だった。  ここは、山梨県の、そこそこの山の中だ。  本格的な登山ではないが、気楽なハイキングではちょっとたどりつけないくらいの場所。 「ふつうなら、届かんだろうな」  先輩カメラマンは、手にしていた望遠レンズをおろしながら、小さくため息をついた。  彼らは、夜明けを待つために、テントの中でそろそろ眠りにつこうとしていたのだ。  そこへ、この呼出しである。  外は星明かりだけの闇《やみ》。テントの中を照らしているのはランタンの明かり。そこに響く、携帯電話の呼び出しの音楽は、かなりの違和感があった。  ちなみに、世界一有名な鼠《ねずみ》のマーチ。 「言っておくが、こりゃ俺《おれ》の趣味じゃないからな」  しなくていい言い訳をしながら、八環は携帯電話を耳にあてた。 「わかりますよ、奈美子も自分の趣味のものをこっちに持たせようとするんで」  裕二は、両親を一度に失ってから、同居するようになった恋人を、のろけてみせた。 「お前の彼女は、こういうのを聞くと可愛《かわい》いってんだろ? あいつは、美味《おい》しそうよね、なんて言いやがんだ」 「へ、あの……あれをですか?」  裕二をきょとんとさせて黙らせておいて、八環は電話に出た。 「もしもし? やっぱりお前か、うわべり。で、誰《だれ》の代理だ?」  八環は、くわえていた煙草《たぼこ》を携帯用の灰皿にねじこみながら、目を光らせた。先輩カメラマンの、日ごろから鋭い瞳《ひとみ》が、さらに鋭角さを増すのを見て、裕二は懐中電灯を拾うと、外に出て行った。気をきかせてくれたのだろう。  彼は、八環の本当の正体は知らない。けれど、彼が、なみの人間では対処できない、特殊な事件にしばしばかかわっていることは心得ている。裕二の恋人である奈美子も、その八環と、彼の仲間たちによって怪奇現象から救われた一人なのだ。 「もういいぞ、うわべり。他人の耳はない」  うわべりというのは、人の名ではない。  彼はTV電波に巣くう妖怪《ようかい》だ。近頃《ちかごろ》では、TVのそれに限らず、電話やコンピューターネットワークにまで干渉することができるようになった。電源が入っていない機器に、潜りこむわざも習得した。  本来届かない場所にまで電波を届かせるのは、ちょっと難しかっただろうが。 『未亜子に頼まれてよう。缶ビール一本で、えらく重労働だぜ。じゃあ、今、つなぐからな』  この電波妖怪は、この世に存在する何ものより、ビールが大好きなのだ。 「ムリアンたちが復活したわ」  もしもしも、相手の名を確かめるのも省略して、未亜子はいきなり本題に入った。 「ムリアン?……なんだっけ……」  戸惑った声で問い掛けた八環に対して戻ってきたのは、不機嫌な沈黙だった。  急いで記憶を探る。すぐに、針にひっかかってきた。少しでも前置きがあれば、こんな間抜けな返答はせずにすんだだろう。  はじめて出会った時は知らなかった。もしもの再会にそなえて、調べておいた名前と素性だ。今度は負けないために。 「あいつらか……。新しいのが、上陸してきたのか? それとも、甦《よみがえ》ってきたのか?」  八環の声に、渋い響きがくわわった。 「後のほうね。あのときの子が、娘を産んだの。今は、その子と一緒。もちろん、ワーゲンともね。あそこに向かっているわ」 「わかった。すぐに行く」  八環は、電話を切った。テントの外にひょいと顔をつきだす。裕二が、森から戻ってくるところだった。ついでに、トイレをすませてきたらしい。 「すまんが、阿久津。少し出かけてくる」  八環は、そう声をかけた。  夜更けの、人里離れた森の真ん中で、徒歩以外の交通手段もないのに。  どこへ行くのかと、裕二は訊《たず》ねなかった。どうやって行くつもりですかとも、訊《き》かない。 「ええと、仕事のほうは……」  裕二にとって八環は信頼する先輩であり、その人の判断に口をはさもうなどとは思わない。ただ、必要な指示だけをあおごうとしている。 「夜明けまでには戻るつもりだ。できなかったら、お前さんで可能なかぎり頼む」  八環は、拝むような手つきになった。裕二は苦笑しながらうなずいた。 「いつかの借りをまだお返ししてませんでしたからね。お気をつけて」  裕二の声に、八環は右腕を軽くあげただけで答えた。  八環と入れ替わりに、裕二はテントに入った。ごそごそと寝袋にもぐりこむ。腕時計のアラームを明日の日の出の三十分前にセットする。その時、裕二は、巨大な鳥の羽音が、テントの真上を通り過ぎてゆくのを聞いた。  正体を確かめたいという欲望を、裕二はぐっと押さえつけた。 「ここよ」  未亜子が言い、ワーゲンが止まった。  住宅街の真ん中だった。都内かどうかは怪しい。北に走ってきたのではないかと思うが、話すことに必死だった梨緒には、確信は持てなかった。  もう日付は変わっている。人通りはなかった。幅の広い道の左右に、同じ形の家がずらりと並んでいる。明かりがともっているのは、十軒に一軒くらいか。真新しい建売り住宅群は、まだ売れていないようだ。看板を見ると、一軒ごとの値段がやたらに高価だった。 「二十五年前は、造成もされていない山の中だったのにね。なごりは、あれくらいだわ」  未亜子が、視線をあげた。  山腹をごっそり削りとられ、赤土をむきだしにした禿山《はげやま》が、家々の背後にそびえたっている。強い雨でもふれは、がらがらと崩れ落ちそうに見えた。 「わたしと、さっき知らせた八環くんと、それから目覚めたばかりだったワーゲンの三人が、二十五年前にここで、あなたのお母さんを襲ったやつらと戦ったのよ」  未亜子に顔をのぞきこまれ、梨緒は、こわばった仕草で、小さくうなずいた。 「なんだ、なんだ、口がきけないわけじゃないだろ。おいらが出てきた時に、あれだけおっきな悲鳴をあげてたくせにさ」  後部座席にいた、奇怪な生き物がからかうように声をかけた。  小学生くらいの大きさの、三頭身の生き物だ。全身が銀色の毛に覆われていて、顔の真ん中にはぎらぎらした巨大な複眼がおさまっている。手足には曲がった爪《つめ》が生えていて、動くと、どこか猫科の動物を思わせた。  こいつが、モバイルギアの液晶画面からあらわれた時は、心底驚いた。画面の前にビール缶を置いて、未亜子が呼んだのだ。そして、携帯電話に触れて、未亜子と誰かを会話させた。  梨緒が逃げなかったのは、乱暴な口調ではあるが、ムリアンたちの持っていた悪意が、この銀色のモンスターからはかけらも感じられなかったからだ。 「二十五年前……戦った?」  梨緒は、なんとか未亜子の言葉を理解しようと、台詞《せりふ》を反芻《はんすう》した。 「そう。でも、ずいぶん変わってしまったから、ここでは、目立ちすぎるわね」  未亜子は少し首を傾けて考えこんだ。 「あの山の上にいってみましょう」  それに応えて、ワーゲンが動き出す。 「妖怪《ようかい》……ほんとうにそんなものがいるなんて」  梨緒は呟《つぶや》いた。 「あんたの反応は、まだましなほうだよ。たいていの人間は、見たものも見なかったことにしちまうか、それとも怖がって攻撃してくるかだからな」  うわべりが、ごくごくと三本目の缶ビールを飲み干しながら言った。八環へ、電波をつないだ報酬として、あと四本を請求したのだ。電波妖怪うわべりの大好物はビールだ。電波か電線でつながっている画面の前にビールを置いて呼べば、彼があらわれる。 「もういっぺん、説明してやんなよ、未亜子の姐《ねえ》さん」  この世界の、夜の部分には、ふつうではないやり方で生まれてきた命が存在するのだと。  彼らは、父と母からではなく、強烈な『想い』から生じる。闇《やみ》への恐怖、自然への畏怖《いふ》、伝説や神話を信じる心によって、いにしえから生まれでてきた、影の生き物たち。  妖怪と呼ばれる存在である。  渓谷から、ざわめきが聞こえてきた時、人はそこに、あずきを洗う奇怪な老人の姿を想像した。その存在を、多くの人が信じた時、形となる。  ろくろ首や狼《おおかみ》人間、吸血鬼といった古典的な怪物たちだけではない。現代においても、人面犬や口裂け女、トイレの花子さんなど、妖怪は生まれ続けている。うわべりなども、現代に生まれた、まだ年若い妖怪だ。  命を支えているのは、それが正当なものであれ、そうでないものであれ、まだ正体をつきとめられていない、不思議なエネルギーだ。ときには『気』あるいは『オルゴンエナジー』、『魂』、『アストラル体』などと呼ばれる何か。  ふつうは、母の胎内の生命の兆しに、それらが宿って子となる。けれど、強い『想い』によって、闇に投影された形にも、生命がそそぎこまれることはあるのだ。  こうして、妖怪たちは生まれる。  かつて、妖怪たちは、山野の中で人間と隔絶して生きてきた。その生まれゆえ灯、彼らは『こうあるべき』『こうするべき』と人間が——あるいはすべての『想い』あるものが——想像したままにふるまうことしかできなかった。  長く生きるうちに、妖怪たちはおのれの内なるくびきから逃れようとしはじめた。  現代に至って、人の領域はどんどんと広がり、隠れ住むのも難しくなった。  妖怪たちは、自由意志を持つようになり、そして人そっくりに姿を変えるすべを身につけて、人間社会にまじって暮らしはじめた。  彼らは互いに助け合うために、ネットワークを作った。その拠点の一つが <うさぎの穴> であり、他の一つがミケの所属する <海賊の名誉> 亭ネットワーク、というわけだ。 「けれど、変わらない者たちもいるわ。特に、人との共存を望まず、それを餌食《えじき》とするものとして生まれた妖怪《ようかい》たちはね」  ムリアン——あの、緑の服の怪物たちも、そういった妖怪の一種なのだという。  もとは、イギリスの一地方、コーンウォールあたりに伝わる、蟻《あり》のような妖精なのだそうだ。死せる異教徒が変化した、冥界《めいかい》にゆけぬ彷徨《さまよ》える魂。  それが、あれこれと他の妖精伝説の影響を受けて、変質をしていった。 「妖怪は『想い』から生まれるもの。強い『想い』によって、みずからを変えてゆく。人のように、自分の力で道を切り開く力を持つ妖怪は数少ないわ、このわたしだって……」  未亜子がそこまで言った時、ワーゲンが止まった。かなりの急ブレーキたったが、中の者たちにショックはなかった。運転が巧《うま》いからだ。  それも当然だろう。彼は、誰《だれ》に動かされているわけでもない。おのれ自身で、その車体を律しているのである。  このワーゲンも、妖怪なのだった。  妖怪を産み出す強い感情のうち、もっとも代表的なのは『恐怖』と『愛情』だという。特に『愛情』は、たとえたった一人のものであれ、『生命エネルギー』の根源が近ければ、生命を顕現させる力を持つ。長年、愛用した道具に、命が宿るのだ。  それを付喪神《つくもがみ》という。このフォルクスワーゲンは、梨緒の祖父に大事にされ、それによって命を得たのだ。今はお化けワーゲンと呼ばれている。  彼が、止まった。 「ここから先は、歩くしかなさそうね」  道が途切れていた。ワーゲンはみずから動く。そのドライビングテクニックは人間の比ではない。しかし、物理的に入りこめない場所は存在する。 「どうして、わざわざ上まで? 話をするだけなら、ここでもいいのに」 「話をするだけなら、ね」  謎《なぞ》めいた言葉を残して、未亜子はドアを開き、外に出た。うわべりも後に続く。  梨緒はしばらくぐずぐずしていた。祖父によって命を得たものだ、という話を聞いてから、この勝手に動くお化けワーゲンに対する恐怖心はなくなっていた。むしろ、親しみを感じている。彼を、ここへ残していくのは忍びなかった。  いや、彼に包まれていれば安心できるから、梨緒のほうが離れたくないのだ。 「早くしなさい」  未亜子に、再度、呼びかけられて、梨緒はしぶしぶと外に出た。  背後ではたんとドアの閉る音がして——。未練げにふりかえった梨緒は、ぽかんと口を開けた。そこには、すでにお化けワーゲンの姿はなくなっていたのだ。  ころりと太った老人が一人立っている。白い髭《ひげ》を胸のあたりまで垂らして、古臭い仕立てのスーツを身につけている。 「お祖父《じい》ちゃん?」  ほんのおぼろげな記憶しかない祖父に、その姿はよく似ていた。他にも、誰か……。  老人は、丸い肩を小さくすくめると、首を左右にふった。 「ワーゲン……さんですか」  思わず、丁寧な口調になっていた。老紳士が、こっくりとうなずく。妖怪の多くは、人間の姿に変身できると未亜子に聞かされてはいた。しかし、うわべりはけだもののような姿のままだし、ワーゲンも車の姿しかとれないものだと思っていたのだ。 「すごい……」  怯《おび》えるでもなく、感心した梨緒だったが、ワーゲンのほうはむっつりとした表情だ。 『笑ってくれればいいのに……』  と、梨緒は思った。 『そうすれば……ああ、藤堂さんに似ているんだ』  所属事務所で、梨緒の面倒を見てくれている青年だ。おじさんぽく見えるが、じつはまだ二十代。福々しい笑顔が、梨緒の心に焼きついている。 『怒ってるだろうな』  と、梨緒は思った。オーディションの結果も聞いていない。母のことだけが頭にあって、今の今まですっかり忘れていた。 「行きましょう」  未亜子にうながされて、梨緒は歩きだした。  母がムリアンと戦ったという話を、早く、詳しく聞きたかったのだが、闇《やみ》の中を木々をかきわけて歩きながら会話するなど、日ごろ鍛えているわけでもない高校生の女の子には無理な話だった。芝居と歌の練習で、腹筋にだけは自信があったのだが。  ワーゲンが、後方から明かりで照らしてくれなければ、確実に大きな怪我《けが》をしていただろう。  その明かりが、どこから出ているのかは、梨緒は考えもせず、ふりむいて確かめもしないことにした。彼は、確かに手ぶらだったはずだが。  ともかく、その明かりがあったおかげで、二十分あまりで山頂にたどりつくことができた。  そこには木々がなく、ちょっとした広場のようになっている。西側は宅地造成の工事によって削りとられた崖《がけ》だ。  広場のほぼ中央に、未亜子はすでに先んじていた。  座りこんでしまいそうになるのを気力で支え、疲れきった足をひきずって、梨緒は未亜子の後に従った。ワーゲンは森の端にたたずみ、うわべりはあたりをうろちょろしている。 「ここよ。ここを見てごらんなさい」  未亜子が指差したのは、ぽっかりと地面に開いた小さな穴だ。  直径は三十�に満たない程度。あの、緑の服の半人半|蟻《ぎ》たち、ムリアンがちょうど這《は》い出してこれるくらいの大きさである。巨大な蟻《あり》の巣の、出入口のようだった。 「あの時、焼け焦げたムリアンたちを、ここに埋めたのよ。わたしと、八環くんでね。本当なら、灰も残さずに焼きつくすべきだったんでしょうけれど、生憎《あいにく》、ワーゲンのガソリンはもう切れていたものだから」  未亜子は言った。梨緒は、言葉の意味を把握しようと考えこんだ。  ここに来るまでに、妖怪《ようかい》の存在について知らされたときに、妖怪は不死の存在だと聞かされた。老化せず、病気にもならず、それゆえに自然死を迎えることがない。  それだけでなく、事故によって死を迎えたり、殺されたりしても、その存在を信じる者がいるかぎり、いつかは甦《よみがえ》ってくるのだという。  たいていの妖怪は、死ぬと死体を残すことなく消えて、誰《だれ》かの�想い�にすがって、新たな形を得る。しかし、時には死体となってその場に残る妖怪もいて、そういう場合は、たいてい死体を跡形なく破壊すれば、復活してはこないのだそうだ。  しかし、ムリアンたちと、二十五年前に戦った時、未亜子たちにはそれができなかった。  その死体が残っていたから、誰かがムリアンという妖精を信じていたから、生き返ってきたのか。そして、仕返しのために、母と梨緒を襲ったのか。けれど、それだけではつじつまがあわない。何よりも、あの言葉は……。 「妖精の存在なんて、今は信じている人は少ない。ムリアンの復活の糧《かて》になった『想い』は、たぶん何か別のものだわ」 「ええ、そうです」  梨緒には、わかる気がした。あの緑の服の生き物たちと目をあわせ、その声を聞いたなら、彼らがどんな『想い』に支えられて存在しているかは、一目|瞭然《りょうぜん》だ。  あれは『悪意』。自分より、すぐれたものへの『嫉妬《しっと》』。  美しい母をねたんだ誰かが、ムリアンを送りこんだのだろうかと、梨緒は考えた。この年頃《としごろ》の女の子にとって、呪《のろ》いというのは、大人たちが考えている以上に近しい存在なのだ。 「あの時、わたしたちが間にあわなかったのに、どうしてあなたのお母さんが助かったのか、疑問に思っていたのだけれど、その答えが出たのかもしれない」  梨緒は、未亜子を見た。とにかく、二十五年前のできごとについて、もっと詳しい話を聞かせてもらわなくては。そうしなければ、どうしていいのかわからない。  その時に助けてくれた、このワーゲンに、もう一度、母は救いを求めようとしたのだ。祖父の愛が乗り移ったのであろう、この妖怪自動車に。 「ああ、答えは知っておる。それを言わせたくて、わしをここまでつきあわせたんだろう」  ワーゲンが、重い口調で唐突に言った。  梨緒は、彼の声をはじめて聞いて、藤堂さんには似ていないなと思った。祖父の声がどんなだったかは覚えていないが、もっと穏やかだったような気もする。ワーゲンの目には、ぎらぎらした怒りが燃えていた。誰に向けられているのか、わからない怒りが。 「二十五年前に、ここで確かに、梨絵子は、あんたを渡すとムリアンたちに約束したんだ」  梨緒の手が震えた。 「自分が、父親に売られたのと同じようにな」    7 「誰もあたしのことなんて……」  梨緒は、ワーゲンの言葉を聞いて、電流に痺《しび》れたように動けなくなってしまった。  彼女が、反問もできず怒り出すこともできないでいるうちに、ワーゲンは語りはじめた。 「ことの起こりは、あんたのお祖父《じい》さん、保坂|友秋《ともあき》じゃった」  吐き捨てるような口調と言う表現があるが、これは、喉《のど》に刺さって抜けない骨を、なんとかのみこもうとしているような声だ。 「友秋さんは、いくつもの会社を動かしておった。あの人の、独自の直観というやつでな。わしに乗っていると、それがよく働くとおっしゃっとった。だから、難しい決断をするときは、いつもわしに乗った。お前があってのオレだと言って、晴れた日にはよく磨いてくださった」  梨緒は記憶をたどってみた。こんなことがあるまで、すっかり忘れていたのに、人間の思い出というのは不思議なもので、きっかけがあるとするする出てくる。  このワーゲンは、祖父が亡くなるまで、ずっとほうりっぱなしだった。家の前の、小さなスペース。今では庭ともいえない庭のような、雑草が生え放題のそこに、ほうりだしておかれたままで。  祖父が亡くなって、火葬場から帰ってみると、消えていたのだった。盗まれたのかと思ったか、警察に届け出ようという父を、母と祖母が止めたのだ。  そうだ、ワーゲンは大事になどされていなかった。  母も祖母も、そして祖父も、恐怖をたたえた目で彼を見つめていたのではないか? 「ところが、ある時、歯車が一つ狂った。わしには、友秋さんからききかじった知識しかないが、商売というのは怖いものらしいな。一つがおかしくなると、何もかもだめになる。あっというまに、全部の会社が傾きはじめた」  雲が切れて、月光がさした。半月からふりそそぐ青白い光が、未亜子と梨緒を照らしだしている。ワーゲンがいるあたりは、まだ暗闇《くらやみ》に閉ざされていた。 「その時じゃったよ、あいつらがあらわれたのは」  ワーゲンの、暗闇の中でもはっきり輝いて見える双眸《そうぼう》が、ぎょろりと動いて、穴を見た。  梨緒も、思わず視線を動かした。  何かがうごめいているような気がして、思わず後ずさった。  それは、単に雲が流れて月光をさえぎったためだったようだ。  未亜子は、静かにたたずんでいる。 「あいつらをはじめて見た時が、わしの最初のはっきりした記憶じゃ」  ワーゲンは、言葉を続けた。 「あいつらは、イギリスから来た。友秋さんが輸入した何かの中に、まじっとったらしい。あの時は、なかばヤケになって、なんでもかでも手を出しとったからな」  外国の妖怪《ようかい》がよく使う手だ、とうわべりがつけくわえた。 「最近、増えたのさ。何かの品物にもぐりこんで、自分たちの手口を知らない人間が多い他の国にやってくる。どこの国にも、人間を餌食《えじき》にしようってやつがいて、共存しようってネットワークがあるからな。悪どいことをして、自分の国を追われちまう妖怪は絶えることがねぇ」 「友秋さんが、ヨーロッパの妖精物語に詳しければよかったのかもしれんがな。わしの生まれはドイツだが、物心ついたのは日本だった」  ワーゲンは、静かに物語り続けた。  確かにそれは、いにしえの妖精|譚《たん》にしばしばあらわれるシチュエーションだった。  苦しみ、疲れた男の前に、妖精があらわれる。親切めかした顔をして近づいてき、魔法を使って手助けしてやろうともちかけるのだ。  男は、半信半疑のまま承知する。はじめのうち、魔法はみごとな効果をあらわして、彼は救われたと感じる。  だが、男が、妖精に頼りきったころになって、妖精は恐ろしい要求を持ち出すのだ。  こばめない相手に向かって、それまでの協力に、これからの手助けに対して、代償を支払うように求めてくる。 「それが、お母さんだったの?」 「十六歳の娘を、花嫁によこせと、やつらは言いおったのだ」  ワーゲンの言葉に、感情はなかった。  友秋は苦悩した。自分一人のことであればいい。しかし、会社が倒産すれば、何百人もの人に迷惑をかけることになる。路頭に迷うものもいる。当時は、ドルショックやオイルショックと言われた不況で、日本経済が揺れ動いているまっ最中だった。 「まあ、よくある話だァな。童話だと、名前をあてれば許してやるなんてことになるんだけど、こいつは現実だからなぁ」  童話どころか、特撮モノの登場人物にもそのままなれそうなうわべりが言う。  梨緒は、笑うどころではなかった。彼らの回想を、自分が生まれる九年前のできごとを、咀嚼《そしゃく》するのに精一杯だったのだ。 「そして、介入したのがわたしたち」  未亜子が、言葉を継いだ。 「妖怪は、妖怪同士引かれあうと言われているの。不思議だけれどね、妖怪が何かしでかすと、別の妖怪がそれにかかわることが多いのよ」  悩んだ友秋が、街頭で声をかけられた占い師、それが霧香だったのだ。梨緒も導いた、純和風の美女。霧香の正体は雲外鏡。一千年以上も生きている、鏡の化身だ。  彼女は、人が心の奥底に秘め隠している何物をも映しだす。その能力によって、友秋の苦境を知った霧香は、 <うさぎの穴> の面々に連絡をとり、友秋を助けようとしたのである。  当時の <うさぎの穴> のメンバーは今よりずいぶん数が少なかった。霧香に知らされて動いたのは、八環と未亜子の二人だけ。しかも、彼女たちが友秋のところにたどりついたのは、すでに彼がムリアンのもとへ向かってからだった。  友秋が、娘の梨絵子も連れて赴いたのは、荒れ地の真ん中に、ぽつんとあった自社の倉庫だ。  さきほどワーゲンを止めた場所である。二十五年前には、倉庫があった。イギリスから輸入された肥料土がどっさりおさめられていたのだ。  その時も、友秋はワーゲンに乗っていた。わずかに意識は芽生えていたが、まだ、自立して動くことはできないでいるワーゲンにである。  けれどいつもの直観は訪れず、彼はまだ、決断をしかねていた。  倉庫の扉は大きく、ワーゲンごと乗り入れることができた。  それまで、梨絵子は何も知らず、ムリアンが姿をあらわした瞬間に、気絶してしまった。  友秋は、娘の代わりに自分の命をさしだすと提案してみた。それは、ムリアンたちに嘲笑《あざわら》われただけだった。お前などに、そんな価値があるものか、と。 「これまでさんざん旨《うま》い汁を吸ってきて、今さらそんなことが通じるかと、やつらは言いよった。あることないこと並べたて、金持ちは吝嗇《けち》で卑怯《ひきょう》だと、さんざん罵《ののし》りおったよ」  さすがに怒りをかきたてられた友秋は、ワーゲンごとムリアンたちに突っ込んだ。  彼らを轢《ひ》き殺そうとしたのだ。しかし、素速いムリアンを捉《とら》えるのは、当時のワーゲンと友秋の腕前では無理だった。 「助手席の梨絵子まで殺す気かと、やつらは言いおった」  友秋は、それを指摘されてあわててワーゲンをとびだした。後部座席に置いてあった日本刀を手にして。かつての骨董《こっとう》コレクションの残りだ。  だが、ムリアンたちにかなうわけもなかった。友秋は、倒れて頭を打ち、気を失った。  父が意識不明になるのと入れ替わるように、最悪のタイミングで梨絵子がめざめた。  彼女は、状況を理解できなかった。迫ってくる怪物たちは、命と貞操の危機を感じさせる。  錯乱し、悲鳴をあげる以外の何が、ごく普通の女子高校生にできただろう。 『あたしは普通じゃなかったのかな……』  梨緒は、よく似た境遇から脱出して、今ここに立っている。 『お母さんが普通だったのに? あれだけ美しかったお母さんが。あたしより、何もかも優れているはずの、だからふりむかせたかったあの人が』  想像しようとしてみる。逃げ惑う母を。きっと、今の自分よりも美しかったに違いない、同い年の母。想像の中の、十六歳の梨絵子は、なぜか色|褪《あ》せて感じられた。 「あなたのお母さんが殺される、ぎりぎりの瞬間にわたしたちは間に合った」  未亜子の声が、梨緒の想像を破った。 「わたしたちは、ムリアンと戦って倒す他に手段はないと判断したわ。説得は無理だと。でも、あいつらは強かった。イギリスの妖精は、ほとんど無数にいるわ。弱点もばらばら。まして、あの蟻《あり》たちは、人間の怨念《おんねん》を受けて歪《ゆが》み果てていた……。わたしたちは、敗北したわ」  梨緒は、ぎゅっと拳《こぶし》を握りしめた。  いつの間にか、母を助けたいという情熱は揮発している。その代わりのように、ぐつぐつとおなかの底で煮えたぎるものが何かある。  これはいったい、なんだろう。 「あたしたちが気絶しているあいだに、ムリアンたちは焼き殺されていた。目が醒《さ》めてみると、うつろに笑っているだけの梨絵子さんをかばうように、友秋さんが倒れていたの。彼女は半年ほど病院にいたわ。退院した時、この事件に関係した記憶はいっさい失っていた」  未亜子が、そこまで言った時、風もないのに森がざわざわと揺れた。  ワーゲンが、言葉をひきとった。 「未亜子と八環がやられちまった後、梨絵子は、命|乞《ご》いをしたさ。必死でな」 「そして、あいつらは言ったのね」  梨緒にも、もう想像がついた。 「いつか生まれるお前の娘が十六歳になったら、オレたちの花嫁によこせ。そうするなら、ここは見逃してやろう」  あの怪物たちの口調を思い出して、真似《まね》てみる。演技の勉強をしているとき、ある人に言われたことがある。  外見を完璧《かんぺき》に真似してみれば、おのずと内面がわかってくる、と。  ムリアンが使った口調を可能なかぎり正確に再現してみると、被らがどんな気持ちでそれを言ったのか、理解できるような気がした。  ねたみだ。そねみだ。幸せな誰《だれ》かを許しておけないのだ。幸福な他人を不幸におとしいれることが、喜ばしくてたまらない。誰の心にも、自分と同じ邪念があると証明したい。  そんな人間の心が産み出したのがムリアンなのだ。 「梨絵子は、ムリアンの要求を承知した。わしは、なんだか無性に腹が立った。不思議なものだ。人間でもない。親も子も知らないこのわしが、はじめて感じた怒りが、いくらまだ生まれていないとはいえ子供を見捨てる親へのだなんてな。あれから出会った生まれたての妖怪《ようかい》たちは、親子の情なんて理解できなかったというのに」  なぜ、彼は不思議がるのだろう。それは、祖父の想いを、ワーゲンが受け止めていたからに決まっている。娘を捨てられなかった自分の心を。梨緒にはわかった。 「わしは、その瞬間に目を見開いた。そして、炎であいつらを焼いたんだ。動けるようにもなってた。『なりかけ』ってのは、なっちまったのに近づくと覚醒《かくせい》しやすいんだそうだ。梨絵子が完全に正気をなくしたのは、わしの目玉を見た時さ。だから、わしは、それから友秋さんが亡くなるまで、二度と自分で動くようなことをするまいと思ったんだ」 「お前さんが、人間に冷たいのはそのせいだったのか」  うわべりが、目の脇《わき》を、鉤爪《かぎづめ》でばりばりと掻《か》きながら言った。 「人間の愛情で生まれたわりに、事件が起きても助けに出ようとしねぇやつだと思ってたが」 「そうかな……。頼まれれば、手助けしに出てたぞ。けど、そう言われてみれば、そうなのかもしれん」  むすっとした口調で、ワーゲンは腕組みをした。 「母さんの約束を知っていて、あたしを助けてくれようとは、思わなかったのね。十六年目のあたしのようすを見てくれようとは思わなかったんだ」  梨緒は、ワーゲンに向かって目を細めた。もやもやとした、実体のない怒りが、正しくないとわかっていながら、見つけたはけ口から噴出しようとした。 「む、むう」  ワーゲンは、口ごもった。彼をかばうように、未亜子が口をはさんだ。 「油断していたわ。ムリアンたちが甦《よみがえ》ってくるには、もっと時間がかかると思っていた。そんな約束があったから、彼らは戻ってきたんだわ。たとえ、表層の意識では忘れていても、奥底ではずっと梨絵子さんは、ムリアンたちの復活を恐れていたのね」  妖怪たちの復活を阻止するには、あらわれて欲しくないと念じるのではだめなのだ。そんなものは存在しないと誰もが信じていれば、すべてのものに忘れられてしまえば、彼らは形をとることはできない。  しかし、恐怖は、それを糧とするものに力を与える。怖い怖いと思っていれば、かえって招き寄せてしまう。無意識の領域であれ、ムリアンの実在を知っていた梨絵子の『想い』は、結果的に彼らの復活に手を貸すことになってしまった。 「言い訳しなくていいわ。母さんだって、あたしのことは必要なかった。父さんは母さんの代わりだとしか考えてない。誰も、あたしのことなんて……」  梨緒が、感情にまかせて言葉を吐き捨てようとしたときだ。 「そんなことはないぞう。わしらは、お前のことをずっと気にかけていたわな」  その声は、穴から響いた。  地獄から聞こえてくるような、そんな気がした。 「オレたちの花嫁を、一瞬たりとも忘れるものかよ」  ざわめく森のあいまからも、風にひきちぎられた木の葉に乗って、言葉がぶつけられる。 「来たわね」  未亜子が呟いた。予想していたようだ。囮《おとり》にされたのかもしれないと、梨緒は思った。それなら、未亜子には勝てる作戦があるのだろう。勝とうが負けようがどうでもいいという気分でいた。梨緒はただ、胸の中の怒りをぶつけようとした。それにもっともふさわしい相手が、あらわれてくれたのだから。 「あたしを花嫁にしたいなら、ちゃんと約束を守りなさいよ。母さんの命を助けるかわりに、だったんでしょう!」  梨緒の叫びに、悪意に満ちた嘲笑《ちょうしょう》が轟《とどろ》いた。 「はっはっはっは、それは違うな。あの場で見逃してやるかわりに、お前をもらったのだ。だから、邪魔をするのなら容赦はしないともさ」  そして、穴から腕が、崖《がけ》の下から脚が、森から生首が、ひきちぎられ、ばらばらになった母の体が、次々梨緒を、そして妖怪《ようかい》たちを目指してほうり投げられた。    8 「たとえ、そうであっても、あきらめない」 「……」  梨緒は、叫ばなかった。  哀しみはかぎりなく、怒りは果てしがない。あれほどに求めていた母の笑顔はもう得られない。父のぬくもりは、自分で拒絶してしまった。梨緒には、何も残っていない。  自分が、いつ狂っても不思議はない状況なのもわかっている。どうせなら、パニック状態におちいって発散したほうが、いくらかましなのかもしれない。  しかし、梨緒は歯をくいしばってこらえた。まだ死にたくないからだ。生きていたい。無茶をすれば、命を縮める。けれど、なんのために生きるのか。それがわからないから、逃げようと足が動きだしもしてくれない。 「!!」  未亜子が何か叫んでいた。言葉になっていない。ひゅうひゅうと風が洩《も》れるような音だけだ。  彼女の喉《のど》から、血が噴きあがっている。投げつけた体に隠れて飛んできたムリアンの一体が、牙《きば》を未亜子の喉に叩《たた》きつけたのだ。  人間であれば、出血多量で死ぬか、意識を失っていただろう。だが、数百年生きて、 <うさぎの穴> 最強と謳《うた》われた彼女が、まだまだその程度で屈するわけもない。  虹《にじ》色のきらめきが、未亜子のドレスを内側から引き裂いた。  彼女の下半身は、きらめく鱗《うろこ》に包まれた大蛇のそれに変じていた。つややかな黒髪はさらに長くなり、鋼の強靭《きょうじん》さをそなえている。指先からは三十�近い爪《つめ》が伸びた。磨きあげられた美術品のような輝きにきらめいている。  未亜子の正体は濡《ぬ》れ女。人の血をすするといわれた、海の妖女だ。  妖怪としての姿をあらわにした未亜子は、それでもなお美しかった。この世のものならぬがゆえに、それまでに倍する美しさで、梨緒はしばらくのあいだ陶然と彼女を見つめていた。  引き裂かれた喉からは、どくどくと血が流れ落ち、あらわになった彼女の乳房を染めている。 「ぼっとすんなよっ」  うわべりが体当りして、梨緒を押し倒した。  ぎゅんと風が唸《うな》った。ムリアンの一人が、飛び越えていったらしい。 「おい、大丈夫か」  さらさらと、銀色の毛皮が頬《ほお》に触れた。うわべりの毛は、見た目とは違ってずいぶんと柔らかかった。 「うん」  手をついて、上半身を起こす。  熱気が、彼女の背後からぶつかってきた。 「バカヤロっ! 危ないじゃねぇか、狙《ねら》うなら別んとこにしろっ!」  うわべりが怒鳴った。戻ってきたのはクラクションの響きだ。  ワーゲンは、元の自動車の姿に戻っていた。ただし、ヘッドライトの部分に丸い瞳《ひとみ》があって、どことなく柔らかげに崩れた姿は、明白にただの自動車ではないことをあらわしていたが。 「こらっ、逃げるなっ」  うわべりが、その複眼から電光をほとばしらせた。ムリアンの一体を狙ったが、はずれた。  邪《よこしま》な蟻妖精《ありようせい》は、必ず視野の隅にいた。決して、正面に出てこようとはしない。そして、常にぶつぶつと何かを呟《つぶや》いていた。  聞きたくもないような、愚痴とねたみと中傷だ。  彼らは、幾多の呪《のろ》いを、人間たちにかわって果たしてきたに違いない。みずからの幸福を願い、誰《だれ》かをひきずりおろそうという望みをかなえてやったのだ。  そうして、ムリアンたちは、わざわざ誰かを幸せにして、それからひきずりおろすという矛盾に満ちた存在になってしまったのだ。  未亜子は、爪をふるい、髪の毛で切り裂いて戦っている。しかし、ムリアンたちは、巧みに逃げていた。必ず視野の隅にしかおらず、追いつめたと思っても影に消えてしまう。  隠れるのではなく、本当に二次元の影に沈みこみ、一体化してしまうのだ。これでは、捕えようがない。  このままでは、以前の戦いと同じことになってしまうのではないだろうか。  うわべりにかばわれながら、梨緒はワーゲンに向かって怒鳴った。 「二十五年前には勝ったんでしょう! お願い、もう一度!」  怒りがふたたびふつふつ煮えたぎりはじめた。  梨緒は、手抜きが嫌いだった。本当はできることをしないのは、見ていてつらいのだ。  彼女は、目立ちたくないから、ずばぬけてしまって恨まれるのが嫌だから、学校では自分を押さえてきた。そして、その分を、仕事で発散してきたのだ。自分の力を思う存分ふるえるはずなのに、挑戦しようとしない相手には、梨緒はいらだちを感じる。  とはいえ、ワーゲンは、決して手抜きをしているわけではなかった。そんな余裕は、どこにもない。二十五年前は、不意を討てたが、今度はそうじゃない。  ムリアンたちは、大|顎《あご》で切り裂くばかりでなく、つんと鼻を刺す匂《にお》いの液体を吐いた。それが命中すると、金属の体も溶けてしまう。強い蟻酸《ぎさん》を吐いているのだ。 「ひひひひ」  ムリアンの一体が笑う。 「思い上がっているから、こういうことになるんだ」  別の一体が、罵《ののし》りの声をあげた。 「ちょっと特別な力を持ってるからって、図にのるんじゃないぞ」 「オレたちは、お前らなんて大嫌いなんだよ。どこかに行っちまえ」  パンと、何かが弾《はじ》ける音がした。ワーゲンのタイヤが、ムリアンの顎に喰いちぎられたのだ。 「ふぎゃっ」  うわべりが、もんどりうって倒れた。ムリアンの一体の頭突きを、もろに腹にくらったのだ。  続いて、蟻酸が吐きかけられる。 「こら、こら、あっちにいきなさいよ」  無我夢中で、梨緒は割って入った。ムリアンは、そんな彼女にも容赦なく襲いかかろうとし……途中で止まった。意地の悪い笑みを浮かべて、彼女の顔をのぞきこんだ。 「まあ、見ていろ。お前を助けようとして、こいつらは皆死ぬんだ。生きている価値のない、お前を助けようとしてな」  ムリアンは、梨緒を絶望させようとして、その言葉を口にしたのかもしれない。  しかし、梨緒はくじけなかった。梨緒は、うわべりをぎゅうっと抱きしめた。彼をかばうように。まだ、いくらか残っていた蟻酸が、彼女の袖《そで》を焼いた。けれど、彼女は怯《おび》えなかった。  ムリアンたちの顔に、不快そうな表情が浮かぶ。 「死にたくはないじゃろう? 誰《だれ》だってそうじゃ。恥ずかしがることはない」  緑のとんがり帽子をかぶった邪妖精が、梨緒の真下近くから話しかけた。彼の下半身は、大地に埋まっている。その姿だけを見ていると、童話に出てくる、願いをかなえてくれる妖精《ようせい》に見えないこともない。  こちらをうかがっている瞳《ひとみ》の、卑しい光さえなかったなら。 「わしらだけが、お前の願いをかなえてやれるのじゃ」  ムリアンたちの動きが止まった。ささっと、あちこちの陰に隠れてしまう。ワーゲンの炎も、未亜子の爪《つめ》も宙を切った。  ムリアンたちは、耳だけ、目だけを突き出して、ようすをうかがっていた。梨緒が、どんな返答をするのか、注目しているのだ。 「死にたくないなら他の者をさしだせばよい。ただし、そこの妖怪じゃいかん。そんなものじゃ、代償にはならん」 「なんだと。このおいらを、そんなもの呼ばわりたぁ、どういう料簡《りょうけん》だ!」  うわべりが、怒鳴った。しかし、ムリアンたちは彼を見ようともしない。 「代償は、あんたの大事なものでなきゃいかん。……あんたがいつか産む娘か息子《むすこ》が十六歳になったら、わしらにくれると約束してくれるなら、助けてやるぞ」  緑のとんがり帽子のムリアンは、媚《こ》びるような仕草で梨緒の顔をみあげた。けれど同時に、その瞳は軽蔑《けいぺつ》の色をたたえている。 『約束してしまえ』  心のどこかで、囁《ささや》く声がした。 『かまうことはないわ。子供なんて作らなければすむことですもの。お母さんは、約束したことも忘れてしまったから、あたしを産んでしまったけど。ううん、覚えてたかもしれない。お母さんだって、そうしたんだもの、あたしが真似《まね》してもいい』  そこまで、声を出さずに考えて。 「いやだな。……いやだ!」  はっきり、声に出した。  将来、愛する人が出来て、子供が作れないのはいやだ。出来ないならしょうがない。けれど、こんなやつらに負けて作れないなんて……。 「負けたくない。あたしは負けない。あんたたちと同じじゃない」  母さんは負けた。自分まで負けたら、母さんが可哀《かわい》そうすぎると、梨緒は思う。  あたしは負けない。母さんは、笑って褒《ほ》めてくれるだろうか。それとも、生意気だって怒るだろうか。  どっちだとしても、あたしを見てくれる。  いつか失うことを、無意識のうちに知っていて、別れのつらさが怖くて、とうとうあたしを愛していると言えなかった母さん。 「誰《だれ》が……」  梨緒の声は震えていた。怒りで、わなわなと震えていた。 「誰が、あんたたちと約束なんかするもんか! 頼らない。自分の力があるもの!」  梨緒は、立ち上がり、ムリアンを正面からみおろした。  どうしてだろう。どうして、こいつらは、そんな約束をさせようとするのだろう。  昔からの決まりごとだからというのは、理由としてあまりに弱いのではないだろうか。 「な、生意気な。お前も、わしらと同じくせに! 命が惜しいくせに! 欲望を満たしたいくせに! かっこうをつけるな」  緑の帽子のムリアンが、憤激して叫んだ。  そうなのかと、梨緒は納得した。こいつらは、安心したいのだ。誰もが自分と同じくらいに低レベルなのだと安心して、向上する努力を放棄したいのだ。そんなつらいことをしなくても、世の中にいる誰も同じと考えたいのだ。優れたやつなどいない。立場が違い、運が違っていただけだと自分を慰めたいのだ。 「最低よ、あなたたちなんて!」  正面から、目と目があった。  邪|妖精《ようせい》の顔に、狼狽《ろうばい》の表情が浮かんでいた。彼は、動けずに、ただ梨緒を見返していた。正面から見据えられたとき、まっこうから立ち向かわれたとき、『ねたみ』には何もできない。  ムリアンたちに救いがあるとすれば、その時、おのれを恥じて、動けなくなる心を、まだ持ちあわせていることだ。  梨緒は、右足をもちあげて、真っ向から緑のとんがり帽子を踏みつけた。踏みおろす時、足でムリアンの顔が隠れた。その瞬間、妖精は動けるようになった。  くしゃりとした感触だけが伝わってきた。逃げられたらしい。 「私たちの攻撃を避けるためだけに、視野の端に逃げているわけではないということね」  いつのまにか、また梨緒の背後に未亜子がいた。ワーゲンも、いる。三人の妖怪と、一人の人間は、体をよりそわせた。ワーゲンの影に梨緒とうわべりが隠れ、死角を濡《ぬ》れ女がカバーしたというのが正確なところだが。  だが、いくつの瞳《ひとみ》があっても、陰に隠れれば正面に立つことにはならない。ヘッドライトの閃光《せんこう》は、一時的に影を吹き飛ばすことができるけれど、すべてのムリアンを同時に照らすのは不可能だった。 「ちっくしょう、援軍はまだなのかよ……」  梨緒の腕の中で呻《うめ》いたうわべりが、ちらりと空を見た。 「お、来た来た! 来てくれたぜぇ」  歓喜の声をあげる。星のきらめく夜空に、それよりも暗いシルエットが浮かんでいた。巨大な翼を持った黒い姿。それに続いているのは、金色の竜と、ごうごうと燃え盛る炎だ。 「あれは、仲間なの?」 「鴉天狗《からすてんぐ》の八環の旦那《だんな》さ。未亜子の彼氏。後ろの金きらは流だな。あいつは龍王《りゅうおう》の息子《むすこ》なんだ。それから、野火の田原《たわら》の兄貴だ」  うわべりは、ぺらぺらと説明した。安心して、口が軽くなっているのだ。 「いえ、このままでは彼らが来てくれても無駄《むだ》ね」  未亜子が、かすれた声で言った。日ごろの美声の面影は、かけらも残っていない。はじめに喉《のど》をやられたせいだ。しかも、出血も止まっていない。上半身は、ドレスをまとったかのように真っ赤だ。  梨緒は、不安そうな顔で、未亜子を見上げた。彼女の発言になのか、それとも、美しい声が失われることを恐れてなのかは、本人にもはっきりしなかったが。 「ムリアンたちを倒すには、正面におびき寄せること。そのためには、不意を討つという手段があるけれど、今回は無理ね」  ワーゲンが、エンジンをからぶかしした。二十五年前は、それで勝利したのだが。 「妖怪《ようかい》は、一度負けた相手に、二度は負けないっていうけどもなぁ」  うわべりがしょんぼりとした声で言った。自分の歓声が、不意討ちの機会を奪ったのではないかと、悔やんでいるのだ。 「でも、動きを止める方法がないわけじゃないわ。うわべりの言うとおりよ。妖怪は、同じ相手に二度は負けないわ。八環くんが、ちゃんと対処法を調べてくれているの」  未亜子のような女性でも、恋人のことを語る時には、口調が変化するのだなと、梨緒はおかしく思った。 「どうせ、文ちゃんところで本でも読んだんだろ」  うわべりが茶々を入れる。 <うさぎの穴> の仲間の一人で、古書店を経営する墨沢《すみざわ》文子《ふみこ》の正体は文車妖妃《ふぐるまようひ》。書物や手紙に対する『想い』から生まれた妖怪だ。彼女の店には、古今東西のあらゆる『書かれることなく終わった本』が存在している。誰かに読まれたいという『想い』をかなえる日まで。 「とにかく、手があんならさっさとしようぜ」 「あいにく、今の私には無理ね。歌えないもの」  未亜子に、囁《ささや》き声より大きな声は出せない。  視野ぎりぎりに、ムリアンたちが集まっている。その数は、数十体。一斉に襲いかかられれば、ワーゲンですらばらばらの破片にひきちぎられるだろう。  梨緒の母のように。 「歌えば、おびき寄せられるの? どんな歌なの?」  誰《だれ》が訊《たず》ねたんだろうと、梨緒は思った。それが自分なのだと気がついて、彼女はびっくりした。とても、落ち着いた声だったからだ。 「どんな歌でもかまわないわ。出来さえよければ、あいつらは聞きほれて襲えないはずよ。下手なら、逆上して歌い手に襲いかかってくるというから、どちらにしても動きは止められるわね」  そこまで言って、彼女は咳《せき》こんだ。血の塊が、喉から飛び出してくる。 「未亜子|姐《ねえ》さん、ひょっとしてその喉は……」  じろりと睨《にら》みつけられて、うわべりは黙りこんだ。確かに、さっき未亜子は歌っていたわけではなかったから、喉を傷つけられたのは偶然なのかもしれないが。 「歌えばいいのね。それなら、あたしにもできるわ」 「やけくそになるなよ、おい」  うわべりが声をかけてくる。 「大丈夫よ。あたし、歌とお芝居とルックスにだけは自信あるんだから」  梨緒は、すっくと立ち上がった。彼女の視野が広がると、端にいたムリアンたちがかさこそと逃げる。  そして、梨緒は歌った。曲は決まっていた。あのイメージソングだ。 「何をしようってんだぁ?」  そう言いながら、ムリアンたちが視野の隅を飛びかう。 「何もできるもんか。できてたまるもんか」  ムリアンたちは、決めつけるように言った。梨緒を封じこめようとしている。  けれど、無駄だ。梨緒に怯《おび》えはない。といっても昔、はじめての発表会の時に、出番を待って舞台の袖《そで》にいたときと同じ気持ちだった。  母さんと父さんが客席にいると思ったら、かえって落ち着いて、開き直れた。  欲しいものを掴《つか》むために、願うだけでなく、何かできることが、自分の力がふるえることがとても嬉《うれ》しかったのだ。  たぶんとても心配してくれているだろう藤堂さんに連絡をしようと、ワーゲンの丸い鼻面を見ながら、梨緒は思った。 「まどろみから」  最初の一声は、裏返ってしまった。ムリアンたちが、一斉に動く。不愉快さと怒りをあらわにして、がさがさと足音を立てて襲いかかってきた。  咳払いして、つま先でリズムをとりながら、落ち着いてもう一度。  目を赤く輝かせたムリアンの牙《きば》が、その喉を切り裂く直前。 「まどろみから醒《さ》めたとき、世界は白くて輝いてた」  ムリアンが止まった。動きが、完璧《かんぺき》に止まっている。 「あなたは天使、光の天使。そんな風に見えたの」  梨緒は歌い続けた。母が聞いてくれている。いつも途中で帰ってしまった母。とうとう、褒《ほ》めてくれなかった母さん。 「輝きに恋をして、まぶしくて何も見えなくて」  未亜子も、うわべりも、ワーゲンも動きを止めていた。  いあわせた全員が、梨緒を見ている。 「でも、わたし、気がついた。あなたは天使じゃないの。あなたの心が輝いたから、わたしの愛は救われる」  ムリアンたちは、まぶしげに梨緒を見つめている。悔しそうだった。  圧倒的な何かを、そこに感じて、彼らは泣いていた。動けない。いにしえから、そう約束されてきた。ただ、そう生まれたからというだけで、みずからの悪意に満ちた存在を唯々諾々《いいだくだく》と受け入れてきた彼らに、意志の力で伝説の呪縛《じゅばく》をとくことなどできるわけもなく。  そこに、上空から八環たちが殺到してきた。  黒い翼が巻き起こす風が切り裂く。うわべりのそれに倍する威力の、黄金竜の電光がほとばしる。ワーゲンにまさるとも劣らない、超高温の炎がすべてを灰にする。灰になって、それすら溶けて蒸発した。  ムリアンたちは、今度こそ消滅した。 「いや、すまん。ずいぶん遅くなっちまった」  八環が、拝むようなポーズで、小さく頭をさげた。 「大丈夫よ。あの時、あなたに教わった通り、あきらめなかったから。ところで、明日からバーゲンなんだけど、荷物持ってくれる人が欲しいのよね」  いつも神秘的な雰囲気をただよわせている未亜子から、バーゲンなどという日常的な言葉が出るのを聞いて、背後の流たちが顔を見合わせる。 「わしは、その……。すまなんだ。もっと、あんたたちのことを見ていればよかった」  ワーゲンは、梨緒に近づいて言った。彼女は、母親の亡きがらを集めている。戦いの中でばらばらに散らばり、踏みあらされて、もう原型をとどめているのは、美しかった顔だけだ。 「もういい。あなたに助けてもらわなくても。誰《だれ》もあたしを気にかけてくれなくても、あきらめない。自分の力で、ふりむかせてみせる。嫉妬《しっと》なんか、もう怖くない。あたしが本物だったなら、何もできやしないって、わかったもの」  梨緒は、母の首をかかえあげて、泥と血にまみれたそれを丁寧に拭《ふ》き清めた。  生前と変わらず、美しい顔。  それを抱いて、梨緒は静かに、静かに泣きはじめた。  十六歳になってはじめて流す、母の前ではじめて流す、それは涙だった。 [#改ページ]    妖怪ファイル [#ここから5字下げ] [大上《おおがみ》恭子《きょうこ》(人狼《じんろう》)] 人間の姿:金茶の髪と灰色がかった茶色の瞳を持つ、長身のハーフっぽい容貌の女性。 本来の姿:上半身が娘の半人半狼。 特殊能力:満月の夜は力を増す。すごい速度で傷が治る。 職業:ザ・ビーストの元工作員 経歴:犬神計画により、人狼の女に賢三が産ませた少女。八歳までは普通の子供だったが、母親が目の前で殺されたのをきっかけに獣化できるようになった。以後人狼の一族に拾われ、一族が所属する組織のために働いていた。 好きなもの:生肉。 弱点:月がないと人間に戻ってしまう。人狼にならないと力が弱い。新月には獣化できない。 [大上《おおがみ》賢三《けんぞう》(犬神《いぬがみ》使い)] 人間の姿:顔の左に大きな傷のある、三十代ぐらいの男。 変化した姿:全身に無数の犬の首を生やした姿。 特殊能力:犬神が取り憑いた人間を操る。操っている人間の目を通してものを見る。犬神を自分に宿らせて力を増す。 職業:ザ・ビーストの幹部。 経歴:古来より大神を操って豪族や権力者を操っていた犬神筋の、最後の一人。犬神筋復活を目指し、百年以上蠱毒『犬神』の研究を続けていたらしい。 好きなもの:犬神。 弱点:蠱毒『犬神』から離れるほど、力が弱くなる。 [フューリー] 人間の姿:赤髪の魅力的な白人女性。屈強な男性の姿にもなれる。 本来の姿:同じ。 特殊能力:自分や他人の性を転換できる。高温の炎を自在に操る。金縛り。半径二百メートル以内にいる悪人を感知できる。 職業:決まった職業はなし。 経歴:出身はアメリカ。レイプされた女性たちの犯人に対する憎悪から生まれた。 好きなもの:悪人を罰すること。 弱点:生まれたばかりなので不完全な意志しか持たない。 [お化けワーゲン] 人間の姿:長く白い髭のずんぐりした老人。 本来の姿:ヘッドライトが目のように見える、不思議なフォルクスワーゲン。 特殊能力:運転手がいなくても時速五百�で走れる、ヘッドライトから閃光をはなつ、ガソリンを燃料に炎を吐く。 職業:自動車。 経歴:長年、持ち主に大事にされたワーゲンが命を持った。 好きなもの:ハイオクガソリン、洗車してもらうこと。 弱点:水中に落ちると動けない。水中では錆びて朽ちてしまう。 [ムリアン] 人間の姿:なし。 本来の姿:下半身が蟻、上半身がイギリスの妖精風の小人。とんがり帽子をかぶったり、髭をはやしたりしている。つねに集団で行動する。 特殊能力:影に隠れる。地面に自由に穴を掘る。強靭な顎でなんでもかみ砕く。蟻酸を吐く。魔法の呪文を使う。 職業:なし。 経歴:イギリスの伝承から生まれた。さまざまな妖精譚の影響を受けている。 好きなもの:人の願いをかなえて、その代償として、大事なものを奪うこと。かなえた願いで人を不幸におとしいれること。ミルク。新しい服。 弱点:音楽に聞き惚れると、動きが止まる。視野の真ん中にとらえられると、妖力が働かない。 [#ここで字下げ終わり] [#改ページ]  あとがき  ふっふっふっふっふっふ。  闇夜《やみよ》には、忍び笑いがしっくりきます。いつもなら、高笑いで登場するわたくし、友野ですが、やはり <妖魔夜行> となりますと、ね。  都会の闇に、ひそやかに息づく異形の生命たちの物語に、声高な騒音は似あいません。  こんばんは。たとえ、あなたが昼間、この話を読んでいるとしても、やはりこんばんは、と申し上げておきましょう。  妖魔夜行小説、記念すべき十冊目をお送りいたします(リプレイなど、テーブルトークRPG関連の本も含めると十八冊目になりますが)。コンプRPG、ゲームクエストを経て、ザ・スニーカー誌に発表の舞台が移り、再スタートしてからの一冊目でもあります。  今回はわりあい <妖魔夜行> として、ベーシックなスタイルの作品が多いかもしれません。はじめて出会った方にも、 <妖魔夜行> の世界を理解していただきやすいのではないかと思います。現代の妖怪《ようかい》たち、新たなる伝説たち、闇の住人たちに興味を持っていただけたなら、他の作品にも触れてみてくださいませ。  この作品集におさめられたものも含めて、それぞれの作品は独立して楽しめるものであると同時に、関連しています。ある事件の主人公が、ほかの物語に脇役《わきやく》として登場したり、過去のできごととして語られたりします。  この作品集の一番手『月下の逃亡者』で、中心となる水波流は、これまでの作品でもプレイボーイぶりを見せてきました。彼の設定は、いかにもヒーローなのですが、その分かえってわりをくってきたところがあります。そういった、これまでの作品に触れると、よりいっそう、この物語での流くんの活躍は味わい深くなるでしょう。  ちなみに作者の北沢慶は、 <妖魔夜行> シリーズには初登場です。スニーカー文庫のグループSNE作品をよく御存知の方には、 <ドラゴン大陸興亡記> でお馴染《なじ》みでしょう。今回も、例によって主人公が痛そうな目にあわされていますね(笑)。  続いての登場は、 <妖魔夜行> シリーズ最多登場を誇る、山本弘の作品。いつものレギュラーメンバーのほとんどを登場させ、この世界における基本設定ももりこんで、なおかつ面白いという、小説の達人のわざを見せてくれています。  冒頭に登場する摩耶ちゃんは、 <妖魔夜行> の小説第一作「真夜中の翼」(同題短編集収録)から登場している重要キャラクター。長編『悪夢ふたたび……』や「悪魔がささやく」(同題短編集収録)などで彼女の成長におつきあいくださった方々には、この作品の冒頭シーンは衝撃的なのでは。はじめて彼女に出会ったという方には、『それはよかったですね』という言葉を贈らせていただきましょう。だって、これから、素晴らしい読書体験が待ち受けているのですから。  ちらりと登場する <海賊の名誉> 亭は、リプレイ集『東京クライシス』、『戦慄《せんりつ》のチェスゲーム』で、小説本編とはうってかわった、いささかコメディタッチながらも、派手な(東京が壊滅寸前においこまれたり、世界が滅びたり! といった)冒険をくりひろげています。  テーブルトークRPG関連の出版物には、小説には登場しないさまざまな設定が収録されていたりしますので、 <妖魔夜行> をより深く知りたいという方にはお勧めです。  本書のラストをつとめさせていただいているのは、わたくし、友野の書き下ろし。 <うさぎの穴> ネットワークに所属する妖怪は二十名近くいます。そのうち、大半はいろんな作品で活躍しているのですが、まだまだスポットライトがあたっていないメンバーも残っています。テーブルトークRPGの資料集で紹介されただけの、アラビアの精霊、ジンニヤーのアシャーキーや、リプレイ『妖怪秘聞』でちらっと出てきたろくろ回しの真原かずしくん。  この『邪念の群れ』では、そういった目立たないメンバーの一人にスポットをあてることにしました。お化けワーゲンです。 <うさぎの穴> の面々の足がわりとして、意外と出演作品数は多いのですが、活躍シーンがありませんでした。そこで……というわけです。  今回、ちょい役のやたさん(八環の通称)ですが、彼と未亜子が主役の長編『闇より帰りきて……』なんていうのもありますので、興味をお持ちになりましたら、どうぞよろしく。  さて、これからも <妖魔夜行> は、さまざまに展開してゆき首す。ひとたび縁ができましたからには、なにとぞおつきあいくださいませ。  なにせ、この本を手にとられたということは、闇の扉を、あなたは開いてしまった、ということですから。  ようこそ、夜へ。  もう、引き返すことはできません。   一九九八年三月二一日 [#地付き]友野�『女優霊』怖い�詳 P.S. <妖魔夜行> がラジオになりました。毎週月曜日の深夜2時から、文化放送さんで『天野由梨のレイト・ホラーファンタジー』として登場しています。ラジオドラマ化も予定されているので、お楽しみに。 [#改ページ]   <初出>  第一話 月下の逃亡者      北沢  慶         「ゲームクエスト」97年5月号  第二話 暗き激怒の炎      山本  弘         「ゲームクエスト」97年9月号  第三話 邪念の群れ       友野  詳                  書き下ろし      ブリッジ        北沢  慶 [#改ページ] 底本 角川スニーカー文庫  シェアード・ワールド・ノベルズ  妖魔夜行《ようまやこう》 暗《くら》き激怒《げきど》の炎《ほのお》  平成十年五月一日 初版発行  著者——北沢《きたざわ》慶《けい》・山本《やまもと》弘《ひろし》・友野《ともの》詳《しょう》